Unsan村のPyolshinjae 韓国の伝統行事をご紹介します。韓国の地名と地図検索のページを用意しました。この地図は韓国観光公社から提供されたものです。扶余という地名が Puyo郡に当たると思います。Ch'ungh'ong県南部は忠清南道がそれに当たると思います。 Ch'ungch'ong県南部のPuyo郡 Unsan(恩山のようです)では、古代、百済王国(クダラ:韓国ではPaekche)が7世紀に唐と新羅(シラギ)の侵略軍と戦って敗れ去って(研究社リーダーズ+によると660年となっています。)戦没した愛国者の慰霊を慰めるために、3年おきに旧暦の2月の吉日に慰霊祭を行うならわしでした。今日では政府の助成により毎年行われるようになっているとのことです。 | | |
pyolshinjaeというのは古代の原子宗教の名残で、韓国の村々で村をあげての行事になっており、多年にわたる災害や疫病を治めるものだということです。 Unsanでは、この行事は特別の意味を持っていて、上述の戦いにこの地方から戦いに臨んで亡くなった兵士の霊を鎮めるためのものとされているということで他の地域よりも込み入っているようです。その中心は山の霊を象徴するchangsungという柱を村の広場の四宮の方向(占星上の方向です)に新しく建て、山の霊と守護神に供え物をすることにあります。 UnsanのPyolshinjaeの祭礼は13日間にわたるものです。まず、旧暦の一月三日に村の会議が召集され、ここで、祭礼を司る司祭と参加者が選ばれます。十五日に山の霊への供え物の祭礼が行われます。そして、廿日前には別の祭礼があって、山の霊の宿る新しいchangsungが建てられます。この一連を9枚の画像でご覧下さい。 このページの記述、画像は下記のページからの引用です。先方には現在、承認をお願いしているところです。 http://korea.insights.co.kr/festival/fes_2.html(リンク切れ)
| 1 | 新しいchangsungのための木を切る前の儀式 | 2 | 新しい山の霊の木を切り出す |
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3 | 3.村の神社に花の供え物を運ぶ |
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4 | 神社に花と食物を捧げる前に簡単な祭礼が行われる |
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5 | メインの祭礼のための供え物を運ぶ |
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6 | 村の長老が神社に供え物を運ぶ。口に咥えた白い紙は邪気が体に入るのを防ぐという |
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7 | 神社の前でのみこの舞い |
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8 | 村の神社での主祭礼の翌日、中央市場でも祭礼が行われる。 |
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9 | 新しい山の霊の木柱が村の入口に建てられる |
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最近、調べていたら慶尚南道梁山市にある霊山大学校のサイトでPyolshinjaeがどうして Unsanでは違ったものになったのか? そのいきさつに関する伝説が紹介されていました。ここに紹介します。 その昔、といっても百済滅亡後ですが、恩山地域に疫病がはびこって多くの人が死に、あまつさえ自然災害が襲って家々を壊し、村を離れざるを得ない人もでてきました。ある老人が、ある日、昼日中に夢を見たのですが、金の鎧兜を着た武者が白馬に乗って現れ、「我は百済の新羅との最後の戦いに敗れて命を落とした武将である。この地は多くの将兵が新羅との戦いに散った地である。」、そして老人に伝えて言うには、「村人が三年ごとに戦死した兵の弔いをするなら災厄はなくなろう」ということでした。老人は目が覚めると、急いで村人にこのことを伝え、全員、葬礼を行うことにしました。そしてすぐに災厄は去り、人々は安住を得たということで、以来、武将との約束を守っている、というわけです。本文の話と若干、矛盾するようですが、どちらも正しそうです。百済王朝の王家の姓は扶餘だったそうで、新羅にソウルを追われて最後に根拠としたのがこの地ですから。恩山は扶餘の北西 8 kmのところです。 それよりも気になるのは百済の英字は Paekcheとなっていてカタカナにするとペクチェで、クダラとは全く異なります。韓国の地名と地図検索を作って得た知見では、百は白と同じで Paek、済は済州が ChejuですからCheで 、Paekcheの方が漢字の読みとしては合っています。私はまた、百済をクダラと読むのは朝鮮語の発音がそうだからなんだろうと思っていましたがおかしくなりました。そこで調べてみると、国立中央博物館のサイトにも謎である、といったことが書いてあります。とても私などの手に合いません。それでも調べていると、様々な説が飛び交っています。私がそれらから出した結論は、百済をクダラと読むのは、やはり朝鮮語の発音だろうということです。つまり、ナラが国で、クンが一種の敬称のような強調の接頭語でクン・ナラが日本人にはクダラと聞こえたというのがほんとだろう、ということです。ではそれがどうして百済という文字になるのか? 済は国を意味し、3世紀の中国の史書に50ほどの部族国家があったとということで、それらを統一したのが百済ということでしょう。つまり百済の文字は意味を表す漢字で、クダラの方は日本の「やまとことば」に相当する、元々の朝鮮語の発音からきているのだろうということです。Paekche:ペクチェの方は百済を朝鮮風に音読みしたもので、日本人が音読みするとヒャクサイになるのと同じだろうと思います。 07/02/11 Pyolshinjaeがいったい何の意味なのか分かりませんでしたが女性講師による連続講座 日本と朝鮮の古代から現代までというサイトで漢字で書くと別神祭ということは分かりました。この祭りの一部が宮崎県の南郷村の祭りの一部とよく似ているということです。この村は万葉の時代、額田王が活躍していた頃、高句麗と新羅に攻められて救援を求めてきた百済に救援軍を送って大敗し、王族などが亡命してきたという言い伝えがあります。 扶餘という地名ですが、これは古代には中国側にあった国というか地方の名前で、百済人、少なくとも王族は中国側の扶餘から来て、この地に先祖の地の名前をつけたもののようです。高句麗もやはり扶餘から来たということになっています。 トップページへ 舗装一口知識 建設用語中辞典 英和・建設用語中辞典 スパム紹介(日記) 世界の祭り 和訳・日本文化紹介 県別地方自治体リンク 50音検索地方自治体リンク
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