トップページへ建設用語中辞典
(英仏独和)
世界の文化世界の国名・
 国旗の由来
国名から探す
和訳・日本の文化韓国地図検索ソウル地図検索釜山地図検索作者のページ
県別自治体リンク50音自治体リンク面白いサイトスパム紹介(日記)お問合わせ
このページだけが表示されたときは、こちらをクリックしてください。

ジンバブエ(Zimbabwe) .zw

首都 ハラレ (63 万) (Harare)

 首都、ハラレは、もとはソールズベリー・Salisburyと呼んでいましたが、植民地の時代を思い出させると、1981 年に改称したものです。

 アフリカ南部の国; 公式名 ジンバブウェ共和国, 人口 12,576,742人(2003)。国土面積 12,576,742 km2。もと 南ローデシア Southern Rhodesiaで 1980 年改称して黒人国家として独立, 英連邦に加盟。バントゥー系黒人 (ショナ族, ンデベレ族など) が大部分。言語: English (公用語), Bantu 系諸語。 宗教: 土着信仰, キリスト教(少数)。通貨: dollar。
 約2千年前、鉄器時代に入ったバンツー系のショナ族 Shonaを含む民族が流れ込んできました。ショナ族は人口の約8割を占めています。グレート・ジンバブエの巨大遺跡はショナ族によるもので、中世に一大文化を築いていました。10世紀初めにはインド洋沿岸でムスリムやインドの商人と交易していて、金、象牙、銅などを織物やガラスと交換していました。中国製の陶器なども出てくるそうです。15世紀中頃にはこの都市は見捨てられて遺跡になっていました。その理由は塩が供給できなくなったためとか、人口増加により、自然とのバランスが崩れて作物が取れなくなったからとか、同じバンツー系ですが別の強力な種族に追われたとか言われています。
 1837年頃からンデベレ族が東海岸のズールー族の強力な族長 Shakaに追われて侵入してきました。1888年にイギリス人、セシル・ローズ Cecil Rhodesがンデベレ族の王から採掘権を得てイギリス・南アフリカ会社を作り、ンデベレ族もショナ族も征服して地名を彼の名前に因んでローデシアとします。東インド会社が典型的ですが、この会社は軍隊も持つ政府みたいなものです。
 どんな事情があったのか、イギリスはローデシアを北と南に分け、北ローデシアは保護領とし、南ローデシアはイギリス・南アフリカ会社が統治し、この会社が経営難に陥って1922年に自治領とします。北ローデシアが後年、ザンビアになります。
 第二次大戦後、1953年に南北ローデシアと1953年に南北ローデシアは東隣のニャサランド Nyasaland、現在のマラウィと中央アフリカ連邦を組みますが、1963年、北ローデシアは黒人が政権をとって連邦を離脱し、連れて南も1965年、独立ということになりました。こちらは少数派の白人の政権です。名前も南を省いてローデシアとしました。宗主国たるイギリスも、もはや少数派による政権を認めない方針をとっていて反乱ということになり、イギリスは国連に経済制裁を要請したりしますが、ローデシア側は硬化するばかりでした。
 ゲリラ抗争が激化し、ローデシアのスミス政権もついてムガベが率いるマルクス主義でジンバブエ・アフリカ国民連合(ZANU)ともう一つ、ンコモが率いる似たような名前で、これもマルクス主義のジンバブエ・アフリカ人民連合(ZAPU)と妥協を図り、体制の崩壊間際の1978年、黒人としては穏健なムゾレワ司教に政権を渡すことで辛くも合意します。そしてこの時点で国名はジンバブエに改名しました。ZANUとZAPUですが、もともとは南アフリカのマンデラとも親交のあったンコモがZAPUを立ち上げ、ムガベが同士として加わったのですが、ムガベが組織を割り、ZANUはショナ族の組織、残ったZAPUはンデベレ族の組織になっていたようです。
 ムゾレワは白人からは支持されたということは、黒人には人気がなかったというわけで、すぐに体制は揺るぎます。ついに1979年、イギリスが仲介に入り、ZANUとZAPUは愛国戦線ということで席を同じくし、とりあえず、より穏健と見なされたンコモとの連合政権を成立させ、選挙にまで持ち込みます。ところが、1980年の選挙ではムガベのZANUが圧勝し、以後、ムガベが選挙を制しています。
 ンコモはいったんは内閣に入るのですが、追われ、ムガベはンコモの郷里に悪名高い第五旅団を差し向け、ンデベレ族の大虐殺が起こります。以後、ンコモは形式的な地位を与えられ、ンデベレ族の一部からは売国奴とそしられ、失意のうちに1999年、世を去りました。
 独立当時、白人の人口は1%にも及ばなかったのですが、およそ価値のある可耕地の70%を所有していて、民主化の過程では土地の再配分は避けられないところです。今、ムガベ大統領は強力に、つまり暴力も辞せずに再配分を進めているようで、それにともなう悲劇が生じつつあるようです。
 スパム紹介(日記)ではメールによるいろんな詐欺の手口を紹介していますが、その中にジンバブエの土地改革で父母を、夫を殺された遺族が南アフリカに移していた財産をエサにしての詐欺が、かなりの数あります。詐欺メールですから、嘘っぱちですが、熟練した詐欺師は確認できる事実については嘘は言わないはずで、いろいろの悲劇が起こっていることは間違いないでしょう。
 国名は南東部の, 10-18 世紀に繁栄した黒人国家の巨大な石造建築遺跡群の呼び名がジンバブエで、 Bantu 語で「石の家」という意味だそうです。ジンバブエは大きな石の壁の意味というのもあります。まあ似たものでしょう。
 首都のハラレの意味ですが、ショナ族 Shonaの族長 ネハラワ Neharawaに由来すると言われています。また、「彼は眠らない」という意味の "Haarari"から訛ったものとも言われています。
チャプング
Flicker-Photo Sharing!より
 国旗の色の意味は緑色が農業と繁栄を、黄色が富を、赤色が独立闘争を、黒色が黒人国家を象徴するという、アフリカでは標準的な意味です。紋章の鳥かな?という形の鳥は「ジンバブエの鳥」ジンバブエの遺跡に刻まれていたもので、平和のシンボルだということです。鳥の名前はチャプング chapunguとか言う、魚を捕るミサゴみたいな猛禽類のようです。もちろん、国鳥で、ハラレ近郊にはチャプング彫刻公園があって、ジンバブエ遺跡の彫刻とかが展示されています。

駐日ジンバブエ大使館(外務省のページで住所がわかるだけです。)
国立民族博物館・研究公演・ジンバブエ・コミュニティ劇団
グレート・ジンバブエとモノマタバ王国
 ジンバブエ遺跡のくわしい歴史、セシル・ローズの詳しい話などがあります。
ジンバブエの写真 その2
 ジンバブエ遺跡の写真とかがあります。むろんその1もあります。
アフリカの地図

↓ジンバブエの地図