南アフリカ(South Africa) za首都 (旧プレトリア Pretorian) ツワネ (Tshwane 行政府 44 万) 首都のプレトリアですが、今に名称が変わるかも知れません。強力を誇ったズールー族と「血の河の戦い」を勝った英雄 Marthinus Pretoriusの名前に因んでいるからです。アフリカ人、特にズールー族にとっては気持ちのいいものではないでしょう。と思ったら、2005年3月8日、ツワネ Tshwaneとする市議会の決議がされて、プレトリアは郊外の一部の地名として残ることになったようです。ツワネは昔のアフリカ人の英雄の名前だそうです。と思いましたが正式に変更するのに看板の付け替えほか、巨額の金がかかるので先の話になるようです。しかし、ツワネ市のホームページはもう立ち上がっています。そこの記事によるとツワネは「我らは共に住む故に同じ」という意味もあるそうです。wikipediaの方ではンデベレ語で「小さな類人猿」といった意味というのもあります。こちらは何か偏見が入っているような気がします。それよりも北隣のボツワナは Tswana族の国で、Boという接頭語をつけた名前ですが、ツワネとの類似性が気になります。調べてみると、ボツワナは確かにバンツー系のツワナ族が主流を占める国ですが、人数的にツワナ族が一番多いのは南アフリカなんだそうです。ツワネの意味について Wikipediaに、それらしいのが出ていました。tswanaは黒牛だというものです。何でも雨乞いのときに黒牛を連れてきて放しておくと、雨の降る土地に行くというもので、遊牧の時代は雨を降らせるよりは雨の降る土地に進むということだったでしょう。そこからがこじつけですが、そうして水が見つかった川が黒牛の場所、tswaneであり、この川の別名がアピエス川 Apies(アフリカ語で小さな類人猿の川)だということで、また猿につながります。多分、アピエス川はツワナ族が来る前からあったンデベレ語の名称だったのでしょう。ツワナとアピエスが同じ意味というわけではなさそうです。 この国は首都まで三権分立になっています。公式名 南アフリカ共和国、人口 43,647,658人(2002)。国土面積 1,219,912 km2。旧英領 the Union of South Africa (1910-61)。ズールー族, コーサ族などバントゥー系諸部族 75%, 白人 14%, カラード系 9% ほか. 言語: Afrikaans, English (共に公用語), Zulu, Xhosa など 11言語、そのほか非公用語として 6言語があります。 宗教: 主にキリスト教. 通貨: rand。 有史前の歴史について言えば大変に古い国です。数百万年昔の類人猿の化石が出てきたりしています。少なくとも4〜5世紀以前にはバンツー族が住み着いたようです。その以前にブッシュマンのサン族とホッテントットのコイ族が住んでいたということです。ブッシュマンというのは蔑称という感があるので、今は、両方を合わせてコイサン族と言い方になっているようです。コイサン族の岩絵は有名なようです。鉄器も11世紀半ばにはあったようで、この鉄器を用いるバンツー族が、原住の採集狩猟の種族と入れ替わっていったようです。 1488年に、ポルトガルのバーソロミュー・ディアスが喜望峰を発見し、1497年には同じポルトガルのバァスコ・ダ・ガマがどこかよく分かりませんが、ナタールを発見したということですが、書き物として残るようになるのはオランダの東インド会社が Good Hopeにインド貿易のための補給基地を設けてからです。(昔は日本語で喜望岬とか喜望峰と呼んでいましたが、ディアスが見つけたときは大変な嵐にあって嵐の岬と名付けられたらしいです。バスコ・ダ・ガマがうまくいったというので改名したようです。喜望峰というのは英語には出てきませんが、地形からいうと峰でもいいらしく、日本語でキボウホウの方がキボウミサキより語呂がいいのでそういう呼び方が普及したのだろうと思います。まあ、岬というのは細長く海に突き出ているわけで、固い山の峰が海に没する感じの地形でしょう。) かくして17世紀、18世紀とオランダ人が少しずつですが植民していきました。植民したのはカルヴィン派の教徒でドイツ、フランス、スコットランド人など、母国で迫害されてオランダに逃れていた人たちも混じっていました。彼らはのちにアフリカーナ Afrikanerと呼ばれるようになりました。いろんな言葉の入り混じったアフリカーンス語ができました。ボーア人、あるいはブール人 Boerという呼び方がありますが、アフリカーナと同じようです。Boerは農民という意味のようで、土地を言えばアフリカーナ、職を言えばボーア人なのでしょう。入植したオランダ人たちは土着のコサ族 Xhosaと争い、インドネシア、マダガスカル、インド方面から奴隷を輸入し、彼らは入植者と混交してケープ有色人 Cape Colouredとかケープマレー人 Cape Malayとか呼ばれ、西ケープ地方では人口の半分を占めています。 1797年にイギリスがケープを奪い、1805年には植民地全体を併合しました。1833年にイギリスが奴隷制を廃止し、これに不満のアフリカーナは内陸に移ってオレンジ自由国 Orange Free Stateとトランスバール Transvaalと自分たちの国を作りました。この新開地に1867年にはダイヤモンドが、1867年には金が発見されて俄然、イギリスが食指を動かします。第一次ボーア戦争(1880-1881)はボーア人がよく抵抗しましたが、第二次ボーア戦争(1899-1902)では、ついにイギリスの軍門に降りました。 その後、宥和政策が採られ、ケープ植民地、東海岸のナタール植民地、内陸のオレンジ自由国、それにトランスバールの南アフリカ連合が1910年に形成されました。政治権力は白人だけが握る仕組みです。イギリス人とボーア人との確執はなくなったわけではなく、第二次世界大戦中も続いていました。この戦争のなかでボーア人だと思いますが、右翼はドイツのナチに好意的で、また人種差別、つまりアパルトヘイトに熱心でした。 大戦の終結後、アパルトヘイトはさらにひどくなり、内外の批判を呼び、長期のストライキなどを経て1990年、左翼系の党派の禁止を解き、後に大統領となるネルソン・マンデラ氏も27年の囚人生活ののちに釈放しました。そしてアパルトヘイトを続けるかぎり経済の回復はおぼつかないことを悟って白人もアパルトヘイト反対にまわりはじめました。そして1994年に初めて全人種での選挙が行われ、アパルトヘイト反対の中心だったアフリカ国民会議(ANC)が政権をとり、以後、続いています。 かくしてアパルトヘイトは終わったのですが、経済的には実質的なアパルトヘイトが続いているようで、改善の試みはありますが、今度は少数の政治にかかわる黒人を利しただけで大部分の黒人は貧困にあえいでいるようです。そして HIVの病にさらされているのも主として彼らです。 国名の由来は言わずもがなでしょう。国旗は1994年に制定されたもので、Yが横向きになっているのは、いろんな人種、民族が協調・統合されて前進することを示し、赤色は独立のために流された血の犠牲を、黒と白は黒人と白人の平等を、緑色・黄色・青色はそれぞれ農業・鉱業・漁業の豊かさを表わしているということで一般にそう言われているのは確かですが、デザインした当時、公式には色の意味づけはしないことになっていたそうです。ネットで調べていたら、『不思議発見』で、「マンデラ大統領はいろんな人種が虹のようにまとまって美しい国になることをイメージした」というのがありましたが、確かに、この国旗は通称はレインボー・フラッグだそうです。 この国の国ドメイン名 TLDが ZAなのは奇異な感じを受けます。最初にこのドメインからのアクセスを見たときはザイールか?と思いました。調べると南アフリカなのですが、今度はなぜそうなのかが分かりません。本来なら SAとしたいところですが、それはサウディアラビアに取られています。ネットで探すとやはり疑問を呈する人がいて、どうやらオランダ語の南アフリカ Zuid Afrikaから来ているようです。最初に植民をはじめたのはオランダ人なので、今はオランダ人は主流ではないでしょうが、まあ、いいか!原住民の主流 Zulu族にも通じるし、ということになったのではないでしょうか? このくだり、まったく私の勝手・無責任な想像です。→南アフリカ共和国大使館
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