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イギリス(United Kingdom) .uk

首都 ロンドン (London)

 公式名 グレートブリテン-北アイルランド連合王国 The United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland、5800 万。グレートブリテンというのはイングランド・ウェールズおよびスコットランドから成る島で北アイルランドと合わせて United Kingdom ということです。 もと Little Britain (対岸フランスの Brittany 地方)と対比的に名づけたものだということです。カナダ Ontario 州南東部にロンドン市があるようです。
 イギリスの第二ドメインのシステムは日本によく似ています。.co.ukは会社、.ac.ukは大学関係といった具合です。ただし、政府関係は.gov.ukで、これは地方自治体もそうです。財団関係も.org.ukで、日本のor.jpとは違います。この辺はアメリカ型ともいえます。
 イギリスの.acは大学関係とはいうものの、日本の大学とは分類が違います。だいたい、義務教育も5-16歳が基本ですが、地方によって異なるなど複雑です。カレッジというのも、6th form Collegeというのがあって、.acのドメインを使っていますが、2年制で大学入学の資格をとるための学校です。preparatory schoolというのがありますが、これはjunior schoolと同じで中学校に入るための準備をする学校ということで日本の予備校とはまったく違います。くわしいことは英国大学総合日本事務局でわかります。
 グレーターロンドンというのは、いわゆるシティ(City of London) と、これを囲む 32 の LONDON BOROUGHS という、区みたいなものから成る区域のことです。 1965 年 City と Middlesex 全域および Essex, Kent, Hertfordshire, Surrey の一部を合併させてできたものです。Baroughというのは勅許状により特権を有する, 特権都市とか自治都市といった意味らしいです。バラと読むのがよさそうです。boroと綴ってあるのをイギリスで見たことがあります。
 どうして、この国をイギリスと呼ぶのか、疑問を持つ人はたくさんいて、ネットも,賑わっています。これはポルトガル語からきた、というのが定説です。ネットでポルトガル語の Inglesから、というのと、inglaterraから、というのがあってまごつきましたが、どちらかが間違いというわけではなくて、Inglesが english、つまり、イギリス人を意味し、inglaterraはイギリス国を意味することがわかりました。英語で、その関係についてのサイトが千件以上、検索されます。エゲレスというのも、昔はよく使われていたようですが、こちらはオランダ語の Engelsch、これはイギリス人だと思いますが、そこからきているようです。
 イギリス人を指してアングロ・サクソンという言い方があります。「国名の意味」のサイトには「アングル Angloとは、彼らの先住地がドイツ北部のシュレスビッヒ地方アングル「土地の隅」であった」とあります。では、サクソンは? ここは、「旅研」のサイトにある、アングロ=サクソン人と、サクソン人が参考になります。
 もっとスケールの大きな話では先住民族・ケルトがどこからきて、どこに征服されて、などが、こじんまりとまとめてある「イギリス人の起源は」があります。(よくサイトが変わってリンク切れになるようなので下の方に内容のコピーを載せておきます。
 もう一つ、イギリス人の英語での呼び方にある、イングリッシュとブリティッシュは同じなのか? 違います。国旗の説明にもありますが、イギリスは連合王国です。いまでも、スコットランド王とかウェールズ王とかをイングランドの王がかねていて、つまり、イングランドが征服したわけです。英国皇太子はプリンスオブウェールズになりますが、これは13世紀にイングランド王エドワード1世が、ウェールズを征服したときに、王子にその称号を与えたのだそうです。イギリスを構成する島は大ブリテン島と、北の方だけがイギリスであるアイルランドですが、これらを一纏めにしてユナイティッド・キングダムで、大ブリテン島に住む人たちがブリティッシュ、その中にはイングランド地方に住むイングリッシュ、スコットランド地方に住むスコットランド人・スコティッシュ、ウェールズ地方に住むウェールズ人・ウェルシュがいるわけです。ですから、スコットランド人はイングリッシュと言われると、あまり面白くないわけです、というわけで、イギリス人に対してはブリティッシュと呼ぶ方が安全ということになります。まあ、それで目くじら立てて、争いにもならないと思いますけど。
 国旗はユニオンジャック、イングランドの St. George, スコットランドの St. Andrew, アイルランドの St. Patrick の 3 つの十字を合わせた 3 国連合を表しているのだそうで、縦横の赤がイングランド、斜めの白がスコットランド、斜めの青が北アイルランドを指しているのだそうです。確かにそうなっているようです。なぜか、ウェールズは仲間はずれです。これはちょっと一緒にするには具合が悪いのでしょう。
ウェールズの旗

イングランドの旗

スコットランドの旗

北アイルランドの旗
 ついでのことにそれぞれの十字架の由来たる St. George、St. Andrew、St. Patrickについて触れておきます。Wikipediaにはもっと詳しい説明がありますけど。
St. George
 日本ではゲオルギウスとかゲオルギオス、ゲオルギイです。ゲオルギウス Georgiusはラテン語、イタリア語ではジョルジョ Giorgio、英語がジョージ George, スペイン語ではホルヘ Jorge, ドイツ語ではゲオルク Georg, フランス語ではジョルジュ Georges,ロシア語ではゲオールギイ Георгийとかユーリイとなる。一番の元はギリシャ語でゲオルギオス Georgiosで意味は「大地で働く人」、すなわち「農夫」です。古代ローマの兵士で、カッパドキアにいたドラゴンが人間を生け贄に要求し、くじで差し出す人を決めていたのが、王の娘にあたってしまって、財宝を差し出してもダメで大弱りしているところにゲオルギウスが通りかかってドラゴンを退治したという伝説の英雄です。退治したのはいいのですが、毒気を吐く口に槍を突き刺して、まだ生きてるところを連れ帰って、「キリスト教徒になったら殺してやる」と無理矢理改宗させたということです。それがキリスト教嫌いの異教徒の王に捕まって、様々な拷問の後、斬首されました。十字架につけられたというわけではありませんが、殉教者という意味で St. Georgeの十字架があるわけです。とにかく勇猛なところが買われてあちこちの国、都市で守護聖人になっています。バスクもその一つです。
St. Andrew
 キリストの 12使徒の一人で日本ではアンデレとかアンドレ、アンドレアスとか呼ばれます。ペテロとは兄弟だということです。ギリシア語ではΑνδρ?αV(アンドレアス)、英語がアンドルー(Andrew)、フランス語ではアンドレ (Andr、ドイツ語ではアンドレアス (Andreas) 、ロシア語ではアンドレイ(Андрей)です。殉教したときの十字架が X型で、そのため、斜めの十字架で象徴されるわけです。
St. Patrick
 日本ではパトリキウス(ラテン語:Patricius)、パトリック(これは英語)、パトリキーとも呼ばれるようです。アイルランドのケルト語では Pdraigと書いてポーリクとか呼ぶようです。少し年代が新しいので生まれたのが 387年、ウェールズです。それが奴隷としてアイルランドに売られ、神の声を聞いて脱走しヨーロッパで神学を学び、今度はローマ教皇の命令でアイルランドに布教にきます。ケルトの異教とうまく折り合いをつけながら布教したということです。彼は臨終に際して「私のことは悲しまず、天国へ行く私のために祝って欲しい、そして心の痛みを和らげるよう、何かの雫を飲むように。」と告げました。アイルランド人は、その「雫」はウイスキーと解釈したようです。アイルランド人はやはりウイスキー好きです。St. Patrickは殉教したわけでもないので十字架は関係なく、ましてや斜めの十字は関係ないはずです。単にキリスト教徒であったということでしょうが、斜めになっているのはイギリス国旗を作る上での都合でしょう。
 06/Mar/03 郵便の歴史を訊ねて、このページに来た人がいました。イギリスが最初かどうか知りませんでしたがヨーロッパでは18世紀には国家が運営する郵便制度があったようです。それが受取人払いで高いものだったようです。それを「近代郵便の父」と呼ばれるローランド・ヒルという人がコストの構造を分析して、今の全国一律の郵便制度を提案し、1840年に実施されたのだそうです。したがって世界最初の郵便切手もイギリスで発行されました。右の写真がひろしま切手博物館でみつけた世界最初の切手「ペニー・ブラック」です。クリックすると拡大できます。昔懐かしい郵便ポストの形はイギリスの形を真似たもののようです。しかし色は黒でした。それが夜は見つかりにくいというので赤に変えたということです。

イギリスはどうしてイギリスなのでしょうか?
月刊児童文学翻訳2004年11月号に出ていたガイ・フォークス・デー(11月5日)を紹介します。英国国教会に反対して国王暗殺を謀り前日に露見して火あぶりの刑になった人物です。見せしめのために人形を焼くのですが、一方で英雄でもあるようです。
→歴史を紐解くとイギリスは11世紀にノルマン、つまりフランスのノルマンディー地方の公国に占領された時代がありますが、その奇妙な名残がジャージー島という地理的にはどうみてもフランスに属した方が自然な島です。
地名で読むイギリスの成り立ち

英国大使館 (イギリス大使館より何だか重みがある気がします。)

イギリスの地図検索サイト(英語)
 Mapquest 地名、郵便番号、道路名で検索。
ヨーロッパの地図

↓イギリスの地図

イギリス人の起源は



紀元前6、7世紀から前2、1世紀にかけてケルト人が移動して英国に住むようになりました。もともとドナウ川、ライン川流域地方を中心に定住していたケルト人が西に移動を始め、フランス、スペイン、北イタリア、バルカン半島、そしてブルタニア(英国のローマ名)に広がっていったと言われています。ブルタニアのケルト人をブリトン人と呼びます。

その後、ローマ帝国によってブリトン人は支配されるようになります(43年クラウディウス帝によるブルタニア征服から410年西ローマ帝国ホノリウスによるブルタニア放棄まで)。117年にローマ皇帝ハドリアヌスがイングランド北部に「ハドリアヌスの長城」を築き、これがローマ帝国最北端の境界でした。

375年にゲルマン民族の大移動が始まり、ブルタニアにも5世紀から6世紀にかけてゲルマン人の一部族サクソン人、アングル人、ジュート人が侵入してきました。この3部族が「アングロ・サクソン」です。このころはスコットランドからピクト人、アイルランドからスコット人なども侵入してきました。

この5世紀末から6世紀の時代、アングロ・サクソン人の侵入と戦ったのが、かのアーサー王と言われています。(もしアーサー王が実在したならの話しだけど)

その後アングロ・サクソン人がイングランドを支配し9世紀にイングランド王国が成立します。またこの頃、ピクト人とスコット人によってスコットランドに統一王国ができます。

1016年にデーン人がイングランドを征服しますが、1066年には仏ノルマン軍がイングランド王国を征服します。イングランド王国は16世紀にウェールズを、17世紀にスコットランドを、そして19世紀にアイルランドを併合して現在に至っています。

以上をまとめると、英国人の祖先はケルト人、ローマ人、アングロ・サクソン人、ピクト人、スコット人、デーン人、アイルランド人、ノルマン人)ということになると思います。(民族学的に正しいかどうかはわかりませんが・・)
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●アングロ=サクソン人 アングロ=サクソンじん

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 今日におけるイギリス国民の根幹をなす民族。単にサクソン人とも称せられる。

【起源と移住】本来はアングル人・サクソン人・ジュート人の3族からなり,低地ドイツ語を話すゲルマンの一派としてドイツ西北部に居住した。長身・長頭・白皙(はくせき)・金髪・碧眼が肉体的特徴とされる。彼らのブリテン島侵入は5世紀中ごろ以降とされている。その原住地は,サクソン人がホルシュタイン地方に,アングル人がシュレスヴィヒ地方に,ジュート人がユトランド半島にいたとされる(ベーダ著『イギリス教会史』による)。だが考古学的成果にもとづいた最近の説では,早くからみられるサクソン人の西進とアングル人の南進,および両者の混住が強調されており,ジュート人も4,5世紀には南進してフリースランドからライン川下流にいたと主張されている。したがって彼らの渡来は部族的な区別をもってなされたのではなく,指導力ある人物のもとに雑然と集まってできた集団による移動であったとされるべきである。移動の原因として考えられるのは人口増加と土地不足,またアジアからヨーロッパをねらう諸民族の圧迫である。彼らは初めガリアをねらったが,フランク族との衝突を懸念して目標をブリテン島に転じたとされている。ここは4世紀の初め以来海賊的侵寇によってサクソン人には熟知されていた。彼らは底の浅い長身を操って侵入,テムズ川口・ウォッシュ湾・ハンバー川口より河川に沿って内地深く侵入,イングランドの南東部・東部ミドランドおよび南西部・北部を占拠した。先住民のブリトン人による抵抗はあったが,大した効果を収めることなく西方へ圧迫されてしまう。そして6世紀に上記の3地方に王国が誕生,合わせて7王国となり,イギリス史上のいわゆる七王国時代を現出し,イングランドがアングロ=サクソンの国たることを確実にした。その後9世紀の初めにウェセックス王エグバードは一応全イングランドの統一を実現し,ふたつの偉業は孫のアルフレッド大王によって継承され,彼はアングロ=サクソン人の王と称した。

【ノルマン人の支配】他方8世紀末以来デーン人の来襲が顕著となり,アルフレッドもこれと戦って苦労したが,11世紀初めごろにはデンマーク王クヌートの支配が実現,ウェセックス王家の支配は一時中断された。クヌートの死後それが回復され,エドワード懺悔王の治世となったが,彼は無力であったため,諸侯割拠・国内分裂の状態となり,王が没するとノルマンディー公ウィリアム1世の侵入を招くこととなり,ここにノルマン王朝の成立を迎える。なおアングロ=サクソン系の最後の王は懺悔王の妃の弟ハロルド2世であった。“ノルマンの征服”によって,新来のノルマン人が支配階層となり,先住のアングロ=サクソン人は被支配階層となった。社会・国家の封建化はすでに9世紀末以降認められるが,征服王は封建制の再編成を断行,アングロ=サクソン系貴族領主のほとんどを追放して,ノルマン系貴族にとって代わらせている(前者でその地位を存続し得たのは10数人にすぎない)。しかし王はアングロ=サクソン人の慣習を尊重したので,それがコモン=ローの基礎となり得たとされる。エグバードによる統一後にできたシャイア(州)制度も継承された。またアングロ=サクソン語の使用が被支配階層のあいだでつづけられ,支配階層のノルマン=フレンチがそれと融合して今日の英語をつくった。アングロ=サクソンによって培われた伝統が、“征服”のために断絶したとはけっしていえないが,彼らはゲルマン人のなかで文化的におくれた民族なので,ブリテン島移住の当初にはかなりの破壊が行われた。だがその後に顕著な発展があり,とりわけ6世紀末に修道士アウグスティヌスの来訪を契機にキリスト教が復活したことにより,古代文化流入の道が開かれた。ベーダは文化復興の気運が生んだ代表的学者といわれ,シャルルマーニュの宮廷に仕えてカロリング=ルネサンスの大立物となったアルクインはベーダの孫弟子にあたる。アルフレッド大王は学校の設立・法典の編さん・古典の英訳などで文化的功績が大であり,『アングロ=サクソン年代記』も企画した。イギリス文化形成の最初の歩みはアングロ=サクソン時代にあるといえる。
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●サクソン人 サクソンじん

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 ゲルマン民族の1部族。ザクセン人ともいう。エルベ・ウェーゼル川流域に原住。一方では早くから海上活動を行い,北海からイギリス海峡沿岸部で掠奪行為など劫掠を繰り返しブリタニアまで侵攻した。5世紀初頭ローマ帝国の勢力がブリタニアから後退するとブレトン人と戦い,この地の占領をはかる。429年ピクト人と連合してローマ軍と戦い,5世紀中ごろヘンジスト・ホルサらの指揮下にブリタニアを支配し,アングロ=サクソン7王国のうちエセックス・サセックス・ウェセックスの3王国を建設する。他方,大陸のサクソン人は中部ドイツに定住地をひろげ,チューリンゲン王国を倒して部族公国をつくる。783年カール大帝により征服されキリスト教に改宗した。850年ごろルートヴィヒがザクセン公国を樹立し,919年ハインリヒ1世がザクセン王朝を開き,2代目のオットー大帝が神聖ローマ帝国を創始。1180年部族公ハイリンヒ獅子公の帝国追放により部族的統一を失う。
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