ウガンダ(Uganda) .ug首都 カンパラ (33 万) (Kampala) アフリカ中東部の国; 公式名 ウガンダ共和国, 24,699,073人(2000)。国土面積 236,040 km2。バントゥー系, ニロート系, スーダン系の諸部族. 言語: English (公用語), Swahili, Luganda など。 宗教: キリスト教が過半数, ほかにイスラム教, 土着信仰. 通貨: shilling。 ニロート系というのはほかに見ませんでしたが、Niloteと綴るようで、ナイル川の上流域の Nilote語を話す民族を指しています。スーダン南部、ケニヤ、ウガンダ、ソマリア、エジプト、エチオピア、エリトリア、チャドに存在するということです。背が高く優雅にほっそりしているというのが一般的な特徴があるようです。 1830年代にアラブ人が来る以前のことについてはあまり分かっていません。しかし、その頃、数世紀は経た王国がいくつかあったということです。次に1860年代にイギリス人がナイル川の源流を求めてやってきて、1877年から布教が始まって1894年にはブガンダ王国としてイギリス保護領になります。この当時は現在のケニヤも含んでいました。 1961年に自治が認められ、1962年には英連邦の一員として。部族の王国のゆるやかな連合の形で独立を果たしました。1966年、オボテ首相 Milton Oboteが密輸の件で議会が調査を決定すると憲法を停止し、大統領、王国制も廃して中央集権国家への道を進み、自ら大統領を宣言し、権限を集中します。 1971年、アミンが率いる軍隊によって追放します。このアミン Idi Aminは実は密輸の件でオボテとともに糾弾された経歴でした。アミンは大統領に就任して憲法を改定して絶対権力を握ります。その8年間の治世の間に経済は衰退し、社会は混乱し、大量の人権侵害と10万人を超える虐殺が行われます。 1978年、アミンの軍がタンザニアを侵し、タンザニアは反撃して、亡命者とともにウガンダに進撃し、1979年、アミンは逃亡します。そして大統領の権限を巡って目まぐるしく政権は交代し、1980年、オボテが大統領に復帰します。オボテのもと、その公安警察は世界最悪の人権侵害を記録します。そして抵抗勢力を排除するため国土のかなりの部分を荒廃させます。1985年、軍によってオボテは追放され、オケロ政権 Okelloは人権の問題を改めようとしますが、一方ではムセベニ Museveniが率いる反乱分子制圧のため、人権侵害は続きます。 1986年、オケロはムセベニに追われてスーダンに逃亡し、ムセベニ大統領が誕生し、人権問題もかなり改善し、報道の自由など自由化を進め、国際通貨基金 IMF、世界銀行などと経済改革をはかります。反乱勢力はまだ存在しますが、現在の主立った勢力はJoseph Konyが率いる、婦女誘拐で兵士のセックス奴隷にする評判の勢力です。 ウガンダはコンゴ、当時、国名をザイールとしていたモブツ大統領の追放に関わって参戦し、今もコンゴの抵抗勢力を支援しているようです。 国名は19世紀まで続いていたブガンダ王国のブガンダ人の名に由来。バンツー語では bu 「国を意味する定冠詞」と ganda 「境界」という意味があるということです。 ウガンダ大使館によると、国旗の真ん中にいるのは国鳥のカンムリヅルです。黒はアフリカ人から受け継いだものを、黄色は輝く太陽の日々を、赤は民族の融和と同胞愛を表わすということです。 →駐日ウガンダ大使館(外務省のページで住所がわかるだけです。)
→ウガンダ大使館 →在米・ウガンダ大使館 →アフリカの地図 ↓ウガンダの地図
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