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タンザニア(Tanzania) .tz

首都 ダルエスサラーム (87 万) (Dar es Salaam)

 1964 年 Tanganyika と Zanzibar とが統合してできたアフリカ中東部の国; 公式名 タンザニア連合共和国, 35,922,454人(2000)。国土面積 59,050 km2バントゥー系黒人がほとんど (100 を超える部族に分かれる), インド人, アラブ人, ヨーロッパ人. 言語: Swahili, English (共に公用語), 部族諸語。 宗教: 土着信仰, キリスト教, イスラム教. 通貨: shilling。
 タンザニアは人類発祥の地といわれるところで、175万年前のものとされる現代人の祖先とか、360万年前のヒトの足跡が発見されています。
 タンザニアには約126種類もの部族が住んでいて、それぞれに言語が違います。西アフリカ、中央アフリカからタンザニアに移住してきたバンツー系部族が多数派を占めており、紀元前3〜1世紀頃からタンザニアにいたコイサン系やクシュティク系部族を同化吸収してきました。そのため、コイサン系・クシュティク系部族は、今日ではわずかになっています。
 その他、ナイル・サハラン語族系の部族もおり、中でもマサイ族が有名です。マサイ族がタンザニアに定住したのは、紀元1世紀頃からと言われています。また、名高いシャカ王のもとで勢力を拡大してきたズールー族により引き起こされた「ムフェケイン」(紛争の時代)から逃れたンゴニ族が、1840年にタンザニア南西部から入国してきました。その地域にいたフィパ族はンゴニ族に破られ、その後タンザニア北西部に移動しています。
 アラブ商人は2000年前にはタンザニアの海岸に到達し、7世紀頃にはザンジバルに定住するようになりました。タンザニア内陸部への通商ルートが確立されたため、アラブ人の影響を受けたスワヒリ文化とスワヒリ語が沿岸部から内陸部へと浸透していきました。
 16世紀には一時ポルトガル人が定住していました。キルワには、ポルトガル人が1505年に建造した砦の遺跡「ゲレーサ」があります。しかし17世紀後半、ポルトガル人は象牙や奴隷の売買を始めたオマーン人に取って代わられました。象牙はインドで大変な需要がありました。インドでは既婚女性は象牙の腕輪を身につけ、亡くなったときには一緒に埋葬されました。18世紀には象牙は日本とも取り引きされ「根付け」に使われていました。奴隷は象牙を海岸に運ぶほか、ザンジバルの丁子(クローブ)やモーリシャスの砂糖の農場でも必要とされ、またペルシャ湾岸、ヨーロッパ、アメリカ大陸に輸出される奴隷もいました。
 19世紀末、ヨーロッパ列強によるアフリカ領土の奪い合いが加熱すると、幾多の抵抗もむなしく、大陸側はドイツに支配されてしまいました。キンジュケティレの率いる隊による有名なマジマジ暴動は、1905年7月の事です。その後、ザンジバルは英国保護領になり、第一次世界大戦後には大陸側タンザニアもドイツからイギリスに引き渡されました。そして大陸側(当時のタンガニーカ Tanganyika)は1961年に、ザンジバル Zanzibarは1963年に独立しました。1964年、タンガニーカとザンジバルが統合されてタンザニア連合共和国が建国
されました。
 国名はタンガニーカ湖 Tanganika 「水が集まる」、インド洋の島ザンジバル Zanzibar 「黒い海岸」、そして嘗てのアフリカの総称であったアザニアAzania 「別天地」の合成語だということですが、最後のアザニアについては、ヘブライ語の Azaniahからきたもので「神が聞いておられる」というもの、アラビア語で東を意味するというもの、奴隷の地というのまであって何がなんだかわかりません。

タンガニーカ
 国旗の緑は大地を、金色は鉱物資源を、黒は人々を、青は海を意味するということです。実はこの国旗はかつては別々に独立していたタンガニーカとザンジバルの国旗を合成したものなのです。なるべく均等になるように斜めに区切られているというわけです。
ザンジバル

タンザニア連合共和国大使館
EXPO '70 タンザニア パンフレット (2) →アフリカの地図

↓タンザニア連合共和国の地図