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台湾(Taiwan) .tw
 国際電話番号 +886
首都 台北 (タイホク、タイペイ) (220 万) (Taipei)

 公式名 中華民国 22,600,000人(2003)。面積 36,190 km2。漢族がほとんど, 先住族は 2%. 言語: Mandarin Chinese (公用語)。 宗教: 仏教, 道教, 儒教など。 通貨: yuan (=New Taiwan dollar)。
 5,000ほど前から人は住んでいたということですが、誰が?となると、あまり分かっていませんが、遺物は残っています。日本で高砂族と言っている先住民は十以上のマレー系の人種だということです。現在は中国からの漢族とかなり同化していますけど。
 08/02/17 このところ、「TPE 国旗」でこのページに来る人が居て不思議に思っていましたが、TPEはオリンピック IOCと国際サッカー協会 FIFAに共通する台湾を指す3文字コードでした。Googleの検索エンジンで自動的に TPEは台湾と判断するようです。TPEは台湾というよりは台北 Taipeiを略したもののようです。
 3世紀、三国志の時代から、中国でも存在は知られていたようですが、国によって異なる名前で呼ばれていたようで、どれが台湾なのかは分からないということです。隋・唐の時代は琉球、留仇、流?、琉求、瑠球と称され、明洪武年間には、小琉球、鶏籠、北港、東番、台員、台円などと呼ばれ、大琉球とよばれていた沖縄と混同される事も多かったようです。中国、それに日本から植民の動きもあったようですが、実現には至らず、結局、オランダが最初に植民しました。
 最初に来たヨーロッパ人はポルトガル人で、この島を"Formosa":美しい島 と名付けました。オランダが、この島を日本や中国との貿易基地として目を付けて1624年から植民しました。スペインも2年遅れて基地を設けましたが、1942年にオランダに追い払われました。オランダ統治の時代に本国を逃れてきた中国人が流れ込みました。このころは、中国本土では、この島には人食い人種がいるとされ、「地獄の門」とも呼んでいたようです。実際、原住民の中には言語も通じない、いろんな民族がいて、首狩りをする部族もいたようです。この頃、明の時代が終末期になり、中国本土は安定していなかったようです。
 オランダ人は近松門左衛門の「国姓爺合戦」(コクセンヤカッセン)の主人公、鄭成功によって1661年に追い出されます。鄭成功はその父、鄭芝竜が日本に亡命し、平戸の日本女性との間に設けた子です。鄭芝竜は東南アジアまで手広く交易と海賊で大勢力を張っていて、鄭成功は清国により壊滅寸前の明のために戦い、明帝から、「朱」という帝王家の姓をさずかり、そのため、国の姓という意味で「国姓爺」と呼ばれるようになったのです。「爺」はジジイではなく、敬称で、大変に尊敬されていたわけです。鄭成功は日本、中国、台湾にまたがる共通の英雄になっているわけです。明朝の始祖は朱玄璋という盗賊の頭目だったらしいです。それで「帝」の姓が「朱」なのです。近松門左衛門は鎖国の中にあって、広く、同時代の世界に関する知識を持っていて、地名、国名などが、正確な発音で記されているということです。
 鄭成功は東都の名で今の台南市に政権を築きますが、翌年には病死して、息子の鄭経が継ぎ、国名を東寧として政情は安定しますが、鄭経も1681年には死去し、一応は孫の鄭克が継ぐのですが、そこまでで、臣下に裏切られ、1683年、清朝に降ります。そうしたいきさつがあって台南市には東寧公園があります。
 清朝はあまり台湾の経営に熱心ではなかったようで、1871年、琉球の船が漂着して、宮古島の住民54人が原住民に殺害された際に日本が抗議すると「化外の地」、つまり文明の及ばない統治外の地として、責任を認めなかったということで、このとき、それではと、日本軍が占領したのですが、このときは住民の抵抗と疾病に悩まされ、早々に撤退
しています。
 そのころには清朝は疲弊し、その属国たる朝鮮に虎視眈々とするロシアとの関係で、1894年、日清戦争が勃発し、1895年、その結果として、下関条約で遼東(リャオトン)半島、台湾と澎湖(ポンフー)諸島が日本に割譲されました。遼東半島の方はロシア、フランス、ドイツの三国干渉により返還しましたが。
 日本の台湾統治は、首狩りにあったり、いろんな非人道もともなったことは事実ですが、総体としては、鉄道・上下水道の整備、学校制度の確立など、本土並みの統治をしたようです。1943年には義務教育の就学率は94%に達していたようです。結果、他の日本統治の土地に比べて、反日感情は強くなかったということです。
 1945年、日本が敗れ、ポツダム宣言により、台湾は清朝なき後の中華民国に返還されることになり、マッカーサーは軍隊の派遣を要請するのですが、中華民国はあまり熱心でなく、やる気のない軍は腐敗して、現地民との間に摩擦を起こし、政府軍が三万におよぶ虐殺を行ったとも伝えられます。中国本土では蒋介石の中華民国と中共が時に手を結び、時に対立していましたが、1949年、中華人民共和国が成立し、蒋介石は二百万の難民を引き連れて台湾に逃れて中華民国の政権を維持して二つの中国が出現します。
 1952年には日本と連合国とのサンフランシスコ講和条約が結ばれて、正式に台湾は返還されますが、どちらの中国に返還するかは触れられていません。政治は蒋介石 Chiang Kai-shekの国民党の一党独裁の形でしたが、その子蒋経国が徐々に民主化を進め、1991年、蒋経国が死亡し、李登輝が台湾生まれとして初めて総統の座につき、民主化は大きく進み、国民党政権も2000年には終わりを告げます。今や台湾の経済力は飛躍的に進み、東アジアのタイガー
と呼ばれるまでになっています。
 国名の由来は
15世紀頃台南地方に渡来した漢民族をマレー系先住民がタイヤン或いはターヤン「外来者」と呼んだことに由来するということです、台湾はこの当て字なのだそうです。
 国旗は中国本土に孫文が樹立した中華民国の「青天白日旗」と呼ばれるもので、青・赤・白の3色は孫文の唱えた三民主義(民族の独立、民権の伸長、民生の安定)に由来し、青は民権主義で正義を、赤は民族主義で自由と独立を、白は民生主義で友愛を象徴する。青は空をということです。そして十二条の光芒は一年の12ヶ月、一日の12の時間(日本でも使われていた子の刻といった十二支で表すもの)を表し、中国の命脈が時の移り変わりとともに永遠に存続することを象徴し、国民が時とともに進み、勤め励んで止むことのないよう鼓舞しているのだそうです。
 台湾の文化に関しては、佐納康治というの大学の先生の旅行記があるので紹介しておきます。コンピュータとか情報の教授のようですが、世界中、旅をされています。

国立民族博物館・研究公演・静寂の雅 ─ 台湾の南管音楽
台湾の大地図(画質はいま一つですが英語、漢字併記です。)