チャド (Chad) .td首都 ヌジャメナ (24 万) (N'Djamena 旧称 Fort-Lamy) アフリカ中北部の内陸国; 公式名 チャド共和国。人口 9,253,493人。国土面積 1,284,000 km2。スーダン系アラブ人, スーダン系諸部族, ほか多数の部族。 公用語: French, Arabic. 宗教: イスラム教 44%, 土着信仰, キリスト教. 通貨: CFA franc。 どうして、Chadのドメイン名が TDなのか? フランス語では Tchadで、ご当地では正式名は Republique du Tchadでした。首都のヌジャメナはご当地風ではンジャメナでしょう。 3百万年前の頭蓋骨が Borkouというところで発見されています。古代にはサハラ砂漠はいまほど不毛というわけではなくて、北部中央には大きな湖があって、その沿岸に人が住んでいたようです。Borkouなどの壁画には象やサイ、シマウマ、ラクダなどが描かれているそうですが、今はラクダだけがいるようです。中世末には知られており、イスラム商人の通商路になっていたということです。 チャド湖に注ぐ Chari川沿いに Sao人が何千年も住んでいて、Kanem-Bornu王国とBaguirmi王国ができ、最盛期にはナイジェリアとスーダンの一部も占めていたようです。1500頃からアラブ人による奴隷狩りが始まって19世紀末まで続いていました。 このチャド湖は乾燥地帯に位置し、水深は最大でも7 mとかで、雨が降れば面積はぐっと大きくなり、乾期には小さくなってしまいます。かつてと言っても1960年代前半には25,000 km2もあって、チャド、カメルーン、ナイジェリア、ニジェールの4カ国が湖岸にありました。今は1,500 km2ほどで接する国はチャドとカメルーンだけです。その昔、1万年前には面積は100万 km2もあってカスピ海の3倍ほどあったのだそうです。この1,000年の間にも、6回、干上がったのではないか?と言われています。 1891年にフランスが侵攻し、イスラム教徒と戦って、1900年に一応は勝ちを納めましたが、武装抵抗は、その後も続き、北部をフランスを占領したのは1914年のことです。フランスは今は今後共和国のブラザビルから統治し、Gabon、 Oubangui-Chariと Middle Congoの連合と加えて1910年にフランス領赤道アフリカを形成しました。 こうした歴史のせいで、北部は古くからイスラム化し住民の多くがアラブ系, 南部はフランスの植民地時代の影響が強く南北の対立があります 第二次大戦後、1958年に自治権に関する住民投票を行い、結果、フランス領赤道アフリカは解体されて、ガボン、コンゴ、中央アフリカ共和国とチャドとしてフランスの連邦になりましたが、1960年には独立を果たしました。ところが、1965年には税金がもとで暴動が起き、北部のイスラム教と南部が主導する政府と対立し、内戦状態になりました。北部出身者を政府に取り込むことも行われましたが、収拾がつかず1979年には周辺の国が介入することになりました。 国境を接している国は6つあり、ナイジェリアが主導して北部出身の大統領 Goukouniと南部出身の副大統領 Kamougueを置く暫定政府ができましたが、翌年には南北の軍が衝突し、Goukouniはリビアの助けを借りて治安を確保しましたが、1981年にリビアとの統合に向けての合意を発表するに及んで周辺国の圧力を受け、外国軍隊の撤退を要請し、リビアが軍を引くと南のHabr将軍が首都 ンジャメナを陥します。暫定政府のGoukouniはリビアと組んで北部と東部に進撃します。フランスがザイールとともに虐殺、拷問ととかく評判の悪いHabr将軍を助けて対抗します。1984年に停戦協定に達してフランス側は引きますが、リビアはそのまま国土の三分の一を占領していました。 Habr将軍の反対勢力の虐殺と、妥協で体制を固め、Goukouniまでもが協力してリビア軍を押し戻します。1987年に休戦が成立し、1994年に国際法廷で国境が確定されます。 一方、Habr政府の内部で対立があり、股肱の将軍、Idriss DbyとZaghawaがスーダンに亡命し、リビアの援助を受けてHabr政府を攻撃し、1990年にンジャメナを陥れ、1991年にはDbyを大統領として憲法を制定します。その後、2年に間に少なくとも2回のクーデターの企てがあり、また、内戦状態になります。フランスの調停で多党制民主主義に向けての議会が持たれたりしましたが、ぐちゃぐちゃとこんがらがって各党派の軍が政府軍と衝突します。 1996年に大統領選挙を実施し、Dbyが、いろいろと選挙不正はあったようですが、勝って、いくつかの反乱軍と休戦しますが、また別の党派が反乱するという具合ですが、とにもかくにも石油が出てきたこともあって世界銀行の融資を受けたりと、体制を整えて2004年現在では権力についています。 国名は南西部のチャド湖の名に由来するのは確かでしょう。そしてチャドは「湖」の意だそうです。 国旗の青は空と希望を、黄は太陽と鉱物資源を、赤は独立の闘争で流された尊い血の犠牲を象徴する。また同時に、青は南部地方を、黄は北部地方を、赤は団結と進歩を表わすそうです。 →駐日チャド大使館(外務省のページで住所がわかるだけです。) →アフリカの地図
↓チャドの地図
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