ソマリア (Somalia) .so首都 モガディシュ, モガディシオ (23 万) (Mogadishu) アフリカ東部の Aden 湾とインド洋に面する国。 公式名 ソマリア民主共和国 Republic of Somalia。人口 9,890,000人。国土面積 653,637 km2ソマリ族が大部分, 言語: Somali (公用語), Arabic, Italian, English. 宗教: イスラム教スンニー派. 通貨: shilling。 この地域には南エチオピアからクシュ人が流れ込んだものと考えられており、紀元前100年には人が住んでいた証拠があるようです。それが紅海やインド洋方面を旅するアラブの商人と接触し、アラブ人が商業基地化し、混血も進みました。キリスト教国になったエチオピアとの関係は何世紀にわたって友好的でしたが、1414年にエチオピア王 Negus Yeshaqが宗教戦争を挑んで成功します。この時、その勝利を記念した詩が書かれ、Somaliという言葉が初めて登場します。 一世紀ほどエチオピアの支配下にありましたが、1530にイマーム・アーマド・グレイ Imam Ahmad Guray?(Gran, Granye)のもと、復讐をはかり、エチオピア人を大虐殺しはじめましたが、エチオピアをキリスト教国として再発見したポルトガルがヴァスコ・ダ・ガマの息子ペドロ・ダ・ガマを救援に送り、アーマド・グレイは1543年、戦死します。こののち、ソマリアにはポルトガルの植民地ができます。 17世紀になってオットーマン・トルコの影響を受け、1728年にはポルトガルの植民地も無くなり、全土を支配されますが、同じイスラム教ということもあってか、支配は年貢を取り立てる以外は厳しいものではなかったようです。 1875年からヨーロッパの帝国主義の時代が始まり、イギリス、フランス、イタリアが領有権を争います。イギリスは紅海の航海ルートを確保すべく Berbaraを支配下に置こうとします。フランスは内陸の石炭に興味を持ちます。イタリアはやっと統一を果たして新顔ですが、戦略的に重要ではないソマリア南部を手に入れます。 ヨーロッパの支配を免れたエチオピアもまた、ソマリアに手を伸ばし、西部のオガデン Ogadenを占領します。ここはほとんど砂漠で大したものではないのですが、以来、係争の地になり、国境は確定していません。これらの外部侵略者に対してムハメド・アブディル・ハサンを指導者とした20年に及ぶ抵抗が始まりますが、北部ソマリアの人口の1/3を失い、1920年にイギリスの空爆でハサンも死にます。 こうしてイギリスがゲリラに手を焼いているのをフランスは高みの見物していたようです。イタリアの方はムッソリーニのもと、はじめて手にした植民地に移民者を送り込み、投資します。イギリスは投資どころではなかったようです。この結果、1960年代に入って再統一されてもイギリスが支配していた北部は衰退して、南部が力を握り、後の内戦の遠因になります。1935年、結局、東アフリカはイタリアの手に帰します。 ところが、第二次世界大戦が始まるとイタリアは植民地どころではなくなり、1941年、イギリスが再占領します。今度は利口になったイギリスは民主主義の導入をはかり、イタリア人を重用して1949年、10年間はイタリアの信託統治に置くことになります。こうしてその後の10年は平穏に繁栄という状態が続きました。 1960年、信託統治が切れて独立します。イスラム国家にしては珍しく女性も政治参加に熱心という、望ましい状況だったのですが、南北の経済格差とソマリア固有の地と考えているエチオピアに取り込まれたオガデン地方の問題、それにケニヤ北方に住むソマリア人の帰属の問題がありました。内政問題はまず外に向き、市民兵がたびたび国境を侵します。結果、エチオピアとケニヤは同盟を結びます。 武器装備の点で劣勢に立たされたソマリアにソ連が援助に乗り出し、中国も経済援助するようになり、急速に共産化されていきます。もともと部族社会で、階級闘争みたいないの無かったのですが、1969年、選挙の結果に不満な、これまで不遇な部族が主体の軍部が大統領を暗殺し、ついにクーデターを起こし、シアッド・バレ(Mohamed Siad Barre)少将を議長とする最高革命評議会(SRC,The supreme coumcil)が政権を掌握し、国名は「ソマリア民主共和国(Somalia Domocratic Republic)」と変更され、地方部は部族の長老が統治するという特異なイスラム共産主義政権ができました。そしてスターリンもどきの強圧政治を敷きますが、バレ自身も周辺を部族で固める奇妙な状況になります。 1974年、エチオピアで共産革命が起こると、その混乱に乗じてオガデンに出兵しますが、エチオピアの後ろにはソ連がついていてソ連とは手切れになります。1978年撤退し、大量の難民が流れ込みます。これでソマリアは完全に経済破綻に陥り、今度はアメリカほか西欧諸国の援助を受けます。ところが、バレ政権は利権政治に陥り、偏った開発が行われ、1981年、北部を中心とした反乱が起こり、内戦状態になり、1991年、ついてバレ大統領は失脚します。 そして新政府ができるのですが、北部はソマリランドとして独立を宣言し、これは部族の争いでもあって、以降、内戦になります。1992年から国連が介入して多国籍軍が送り込まれたが、解決できず1995年には完全撤退してしまいます。2002年には今度は南西部が独立を宣言し、混乱した状態がつづいています。 国名の由来はソマリア人の国ですが、そのもとはヌビア語で黒いという意味だそうです。 青は独立に大きな貢献のあった国連の旗の色からとったもので、中央の星は自由と独立のシンボル、5つの光陵はソマリア人が元々住んでいた近隣5地方を表わす。5地方というのは ジプチの Issas部族,エチオピアのソマリ人、ソマリランドの Issak部族、かつてのイタリア領ソマリア、それに北ケニヤのソマリ人らしいです。 →アフリカの地図
↓ソマリアの地図
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