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スーダン(Sudan) .sd

首都 ハルトゥーム (33 万) (Khartoum) アフリカ北東部の国; 公式名 スーダン共和国。 人口 38,114,160人。国土面積 2,505,810 km2 アフリカ大陸で一番大きな国です。北部は主にアラブ系, 南部は主に黒人. 公用語: Arabic (主に北部で使用). 宗教: イスラム教 (スンニー派) 70%, 土着信仰, キリスト教. 通貨: pound。
 スーダン大使館の紹介によると、紀元前2000年以上の歴史のあるスーダン帝国ががあったということで、980ものピラミッドがあり、エジプト文明の一翼を担っていたように思われます。
 Wikipediaによると、ちょっととりとめのないところがありますが、7世紀頃は、小さな王国とかの集まりだったようです。一番古いのはこの国を縦貫するナイル川の第一瀑布の南あたりのヌビア Nubiaとマコリテ Makoritaeとかいう国、ブルーナイルの方にあったアロダエ Alodaei王国でした。ヌビアとマコリテは後に合体してアル・ムクラ王国になりました。
 イスラム教とアラブ人が 640年頃に入ってきました。ナイル川と紅海の間の地帯は金とエメラルドの産地でアラブの採掘者が浸透していきます。エジプトはスーダンを固有の領土として主張し、1820-21には北部を占領しましたが、全土を支配するには至らず、部族国家の乱立のまま、奴隷狩りの対象になったりしていました。
 1881年に自らを マハディ Mahdi「予期されし者」と名乗るイスラムの指導者が西部から中央部にかけての部族の統一をはかり、その「従う者」を名乗る支持者、これが現在の最大の政治勢力であるウンマ党 Ummaになっていますが、1885年にハルツーム Khartoumを陥落させて、1898年にイギリスの支援を受けたエジプトに転覆される
までは一応の国家だったようです。1885年のハルツーム陥落はイギリスにはかなりのショックだったようです。1899年にはイギリスとエジプトの共同統治となり、実際のところはイギリスが支配していたようです。
 1953年になってイギリスとエジプトはスーダンの自治を認め、1956年に独立を果たしました。このとき、アラブ人を主力とする新政府は、イスラム教以前にキリスト教化された南部の黒人に対する連邦の約束を破り、1972年までの内戦になります。この間、北部が安定していたかというとさにあらず、イスラム教と、共産主義と入り交じった派閥がクーデターをくり返して軍政の色を、イスラム教独裁の色を強めていきました。中心人物はニメイリ大統領です。彼はイスラム法の「目には目を」の原始的刑罰を復活させます。これは南部のキリスト教徒にも適用
され、1983年から始まった内戦を招き、ニメイリ大統領自体は1985年に失脚しますが、今度は2003年には西部のダルフール地方で黒人系の民族に対して今度は「民族浄化」が始まり、今も続いているようです。
 この「民族浄化」はサダム・フセインをも上回る、忌むべきものがあるようですが、まだ、国際的な手はさしのべられていないようです。困ったことに、ここに影を落としているのは今や世界第二位の石油消費国になった中国のようです。中国がスーダン政府軍に肩入れしているのです。ブッシュさんも、うかうかとは手を出せないでしょう。
 国名は「黒人たちの土地」を意味する Bilad al-Sudan から来ているのだそうです。アラビア語のようです。
 国旗の赤は革命によって流された尊い血の犠牲を、白は平和と未来への希望を、黒はブラックアフリカを、緑の三角形はイスラム教をそれぞれ象徴する。ということです。今の国旗は1970年に制定されたものですが、それまでは青、黄、緑の横三色だったようです。
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