中央アラビアの王国; 公式名 サウディアラビア王国、人口 24,293,844人。国土面積 2,218,000 km2 ただし、アラブ首長国、オマーン、イェーメンとの国境は砂漠のことではっきりしていないので、正確にはわからないようです。 アラブ人。言語: Arabic。 宗教: イスラム教(主にスンニー派). 通貨: riyal。 アラビア半島の荒々しい気候は定住を阻むものでしたが、様々な文化の人々が 5,000年以上前から住んでいました。今のバーレーンなどの湾岸地域に残る、日本では知る人の少ないディルムン文化 Dilmun Cultureの遺跡は、シュメール文化、メソポタミア文化、古代エジプト文化に匹敵する時代のもののようです。しかし、その後この地が重要になってくるのはモハメッドがイスラム教を創始してメッカ、メディナが宗教上重要地になってからです。 サウディアラビアの最初の国はムハンマド・ビン・サウド Muhammad bin Saudがイスラム教の改革者、つまり復古運動者、つまりは原理主義者ののムハンマド・アブド・アル・ワッハーブ Muhammad Abd Al-Wahhabと組んで、サウドが軍事と政治を、ワッハーブが宗教を受け持つ体制だったようです。 その後 150年は、アラビア半島の覇権を巡ってエジプト、オットーマン帝国、あるいは他のアラブ部族との攻防で盛衰がありました。現在のサウディアラビアはアブドル・アジズ・イブン・サウド Abdul Aziz Ibn Saudが、1902年にライバルのアル・ラシード家 Al-Rashidを倒して父祖の地・リヤドを奪い返し、さらに1913年から1926年にかけて残余の地を支配し、1927年にいったん、Hijaz王国とNejd王国(イブン・サウドが両方の王)の連邦として成立し、1932年にサウディアラビアとして統一されたというわけです。1938年に石油が発見されて/a>、この国の歴史は大きく変わりました。今やエジプトに代わって中東の盟主の座についています。 1967年のアラブ諸国とイスラエルとの間の第三次中東戦争(六日でカタが付いたので六日戦争と呼ばれます。)には参加こそしませんでしたが、戦後はエジプト、ヨルダン、シリアを支えて財政援助をし、1973年の第四次中東戦争では OPECの主力メンバーとして、石油禁輸戦略を発動して、世界中にオイルショックを巻き起こしました。ここまでは、反イスラエル、反アメリカの立場で動いてきたわけです。 ところが、1990年のサダム・フセインのクウェート侵攻による湾岸戦争を機に、フセインの野望を恐れたサウディアラビアはアメリカ軍の駐留を許し、複雑なことになってきました。今や親米政権といってもいいのでしょうが、国民が親米かというとそうでもなさそうです。ウサマ・ビン・ラディン、そして 9.11の同時テロの主力はサウディアラビア人というわけで、下手をすると政権転覆がありうるかも知れません。 国名の由来は現在の王朝・サウディ家のアラビアです。で、そのアラビアですが、砂漠の民という意味らしいです。 国旗地色の緑はイスラム教の聖なる色です。シャハダ Shahadaという誓いの言葉らしいですが、アラビア語で「アッラーの他に神はなく、ムハンマッドは神の預言者である。」というコーランの一節と、聖地メッカの守護を意味する剣が描かれているということです。緑がなぜ聖なる色かというとマホメットのターバンの色がそうだっただということです。 サウディアラビアの祭りを探して、このページに来る人がありますが、探してもなかなか見つかりません。見つかったのはリヤドの近くでジェナドリヤ Jenadriyahというもので軍隊が主催して 2週間ほど続き、その間、人参をすり下ろしたものと砂糖、スパイスで作ったケーキ→が見物客に配られるということです。1985年に始められたもので、伝統的な祭りというわけではありませんが、2週間の中ではラクダのレース、民俗音楽にダンスとあらゆる伝統的なものを集大成しているそうです。祭りの写真は英語ですがここにあるようです。 ここで見つけたサウディアラビアの格言↓