ロシア(Russia) .ru首都 モスクワ (880 万) (Moscow) ヨーロッパ東部・アジア北部にまたがる国; 公式名 ロシア連邦, 145,537,200人(2002)。国土面積 17,075,200 km2。1922-91 年ロシア共和国の名でソ連邦構成共和国。 ロシアの古い歴史は教科書レベルでは出てこないので、あまり知ることはありませんでしたが、調べてみると近世に至る以前はウクライナと歴史を共有していて、むしろウクライナの方がロシアの発祥の地のようなのです。歴史はウクライナのキエフから始まります。その以前には、教科書の世界史には出てこない謎の大帝国、カザール帝国あるいはハザール帝国がキエフも支配していたようです。そこに、9世紀、スカンジナビア方面からルーシ族 Rusと呼ばれるバイキングがやってきて、支配階級になっていったようです。中世に至る前は、キエフが歴史の中心になります。実はルーシ族は今のロシアの方の方のノブゴロドの方に先に進出していたのですが、16世紀までは歴史上は脇役になります。バイキングは海賊かと思ったら、川づたいにも活動していたわけです。彼らはスラブ人を捕まえて奴隷にしたりしていましたが、同化もしていきました。スラブ人を奴隷にしたのはバイキングだけではなくて、ローマ帝国、東ローマ帝国を通じて、その大農場の働き手としてスラブ人を狩り出していたようで、英語の奴隷 slaveがスラブの slavと似ているのは理由のあることらしいです。スラブの意味ではのろまな人々とかいうのもあります。もともと、そんな意味があるわけではないでしょう。slavの本当の意味は「誉れ、栄光」を表す言葉なんだそうです。 ハザール帝国との紛争が絶えなかったようですが、とにかく10世紀頃には国の態をなしていたようです。ところが、中世に入ると13世紀、モンゴルの大進撃に出会って、東スラブはキプチャク汗国に支配されます。このタタール Tartarのくびきを脱するのは1480年のことです。タタールというのは、漢字では韃靼・ダッタンと呼ばれる民族です。モンゴルも進撃するにつれて、地域の民族を巻き込んで行って、モンゴル人自体がタタールということではないのでしょう。日本の蒙古襲来も主力は北朝鮮の高麗人だったようですから。また、横道にそれますが、近松門左衛門の「国姓爺合戦」にも韃靼人は登場します。ジンギスカンのモンゴルが中国を支配して元を興しましたが、そのモンゴル人のことらしいです。東ヨーロッパから中国にかけてタタール人という単一の民族がいるわけもなく、古くはフン、匈奴、ウイグル、それにカザールも含めた総称ではないでしょうか? その辺を詳しく書いたサイトが見つかりました。 ロシアに関する記述のはずが、横道ばかりそれますが、タルタルソース、この語源はこのタタールらしいです。ギリシャ神話で、Tartarusというのがあって、奈落の底といった意味のようですが、これと関連づける説もあるようですが、まったく異なるようです。辞書で tartarを引くと「ぶどう酒醸造樽の底に沈澱する物質で, 酒石酸の原料」というのと、タタール(塔塔児)族, ダッタン(韃靼)人; タタール語 (Tatar) 強暴なやつ」が出てきます。凶暴がほんとだと思いますが、辞書の丸写しです。多分、酒石酸は樽の底、つまり奈落の底と関係ありそうです。語源としては別物でしょう。 このころにはモスクワが商業地として繁栄して、今日の基礎を作り、1547年イヴァン4世(雷帝)はツァーリ(ローマ帝国のカエサルのロシア訛りです。)を名乗ります。ロシア皇帝 Tzar, Tsar, Czarの誕生です。というか、その頃はまだモスクワ皇帝のようです。そしてシベリアも版図に組み入れました。イヴァン4世というのは、最初にノブゴロドに進出してきたバイキング、リューリクの家系のようです。この頃にはリューリク王朝と呼ばれていたようです。これが1598年に断絶してミハイル・ロマノフが16才で皇帝に選出されてロマノフ王朝が誕生します。1700年から1721年にかけてデンマーク-ノルウェー、サクソニー-ポーランドなどと組んで当時の強国であったスウェーデンと戦ってRussia, Denmark-Norway and Saxony-Poland (from 1715 also Prussia and Hanover)大北方戦争に勝利し、一躍、ヨーロッパの強国にのし上がります。そして、1721年にはピョートル1世が初めてロシア帝国を名乗ります。その後エカテリナ2世、彼女はドイツの下級の貴族の出で、ピョートル3世に嫁いできたのですが夫を地位から追いだして自ら皇帝の地位につきました。彼女の時、伊勢の商人・大黒屋光太夫が江戸に向かう途中で遭難し、めぐりめぐって何とモスクワにまでたどり着いて謁見しています。 当時のロシアは農奴制を土台にした絶対君主制で、近世に至るまで、ヨーロッパ中世の封建制を引きずっていました。そして、ヨーロッパの自由主義が浸透してきて国は揺らぎます。そして、第一次世界大戦で、疲弊したロシアは1917年に革命が起き、1918年にはロマノフ王家は銃殺されて断絶します。 革命を指導したのがレーニンです。次が独裁者スターリンの登場です。ポーランドなど周辺の国を手中に収めてソビエト連邦を形成し、外にも強かったのですが、内に対しても反体制と見られるものを大量に処刑、シベリア収容所行きにして1200万人が犠牲になったと言われます。今のブッシュさんがこの頃だったら、当然,熱い戦争だった? 第二次世界大戦後はいわゆる冷戦時代に入り、アメリカの対極として、日本にとっては憎まれ役を務めてきました。ゴルバチョフの時代になって雪解けが始まり、ペレストロイカ(経済開放政策)とグラスノスチ(情報開示)が進められ、だんだん好ましい国になっていきます。 1991年には保守派、この国で保守派と呼ばれるのは共産党ですが、それがクーデターを起こすのですが、エリツィンがこれを鎮圧し、共産党は解散、そしてソビエト連邦も崩壊します。そして、その余塵がチェチェン紛争などとして残っているわけです。 ソビエト連邦が解体されてロシアは純粋の一国になったか?というと左にあらずのようです。Wikipediaのロシア連邦の地方区分に行くと、説明がありますが、チェチェン共和国みたいな「共和国」が 21、単に「地方」と称されるのが 6、ロシア人が主として居住する「州」が 49と,「連邦市」と訳される日本の都や府に相当するモスクワ市とサンクトペテルブルク市、「自治州」と呼ばれるユダヤ自治州、「自治管区」と称されるのが 10と、全部で 89の自治体があるということです。それぞれに自治の度合いが違い、どれも連邦の上院に二人の議員を送りますが、自治管区というのは「州」とか「地方」にも属しているという構造です。どれが自治の度合いが強いのかよく分かりません。プーチン政権になってからは、さらに連邦を7つに束ねた連邦管区というのができて、中央集権を強めたということです。下に図を示しておきます。 国名の由来はスラブ地域に侵入したスウェーデン・バイキングの総称Rusに地名接尾語-iaが付けられたもので「バイキングの国」の意。Rusそのものの語源は古ノルマン語のruotsi「オールを漕ぐ人」とされる。ということで納得できますが、ロシアとしては異論があって良さそうです。異説があるという記述にも出会いました。 国旗は帝政ロシアの国旗が復活したもの。これは“スラブ三原色”と呼ばれる白・青・赤の3色を横に三等分に配列した旗で、白は高貴と率直の白ロシア人を、青は名誉と純潔性の<小ロシア人を、赤は愛と勇気の大ロシア人(白ロシアと小ロシアを除くスラブ人でしょう)を表わす。ということです。しかし、白ロシアと小ロシアがそれぞれ、ベラルーシとウクライナとして独立した今、色と人種との対応付けは意味を失っただろうと思います。ソビエト連邦時代の国旗は真っ赤の中に大鎌と星でしたが、一応、ソビエト連邦のページに載せています。 →国立民族博物館・研究公演・南シベリア・トゥバの喉歌フーメイとその民族音楽 →国立民族博物館・研究公演・「アンサンブル・エネサイ」 トゥバ共和国というモンゴル国の西北に隣接する北海道ふたつ分くらいの大きさで、約30万人の人口の国の民族音楽とおどりです。チンギス・ハーンの時代に勇猛な兵として知られたオリヤンハイ民族の末裔だということです。中国はこの共和国の領有を主張しているということです。土地は険しい山岳地帯とステップ地帯、砂漠地帯、そして広大なタイガの森からなっていて、トナカイ遊牧の発祥の地といわれ、今でもトゥバではアジアの全ての遊牧形態が見られるということです。トゥバ人の約3割にあたる人びとが、季節ごとに牧地を移動しながら、羊、ヤギ、馬、牛などと共に遊牧生活を送っているということです。 | |
ロシアの文化に関しては、佐納康治というの大学の先生の旅行記があるので紹介しておきます。コンピュータとか情報の教授のようですが、世界中、旅をされています。 →ロシア大使館 ロシアの歴史・古代(日本ではあまり知られていないだろう、ロシアの生い立ちの歴史は実はウクライナと共有していることが分かります。読み応えがあります。日本語です。) ロシアの歴史・現代まで →ヨーロッパの地図 | |