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マケドニア(Macedonia) .mk

首都  スコピエ, スコプリェ (45 万) (Skopje)
 国際電話番号 +389

 バルカン半島中南部の内陸国。国土面積 25,333 km2。人口 2,038,514人(2006)。マケドニア人 67%, アルバニア人 23%, トルコ系など. 言語: Macedonian, Albanian. 宗教: マケドニア正教, イスラム教. 通貨: denar。1946-92 年の間はユーゴスラヴィア連邦の構成共和国でした。マケドニアはもともとは古代のBalkan 半島南部の王国で、 今のギリシア・ブルガリア・マケドニア共和国の地域にまたがっていて, 前 4 世紀特に Philip 2 世とその子 Alexander 大王の時に最盛期を迎えた、という由緒正しい国名で、ギリシャの北部はマケドニアになっています。マケドニアが独立するとき、マケドニアの国名についてギリシャから横槍が入りました。
 マケドニアと言えば、世界史でアレキサンダー大王の出たところと覚えていたのですが、そのマケドニアはギリシャの地方でもあります。もともと同じマケドニアですが、区別するためにギリシャ側は Makedoniaとすることもあるようです。また、Macedoniaの方を Vardaar Maacedonia、ギリシャ側の方はエーゲ海に面しているので Aegean Macedoniaという言い方がされていました。アレキサンダー大王のマケドン王国が出現したのは紀元前 7世紀で、今のマケドニア共和国の南部とギリシャ側の領域です。アレキサンダーが活躍するのは紀元前 4世紀で、その版図はギリシャはもちろん、ペルシャ帝国からインド近くまで、それにエジプトを含むものでした。しかし、アレキサンダーの没後はすぐに衰えてローマに敗れて、紀元前 146年にはローマの一地方になります。395年にローマ帝国が東西に分かれ、マケドニアは東側のビザンチン帝国の方に従い、ギリシャ文化が栄えますが、7世紀頃からスラブ人が北西部から入り込んできました。13、14世紀になるとビザンチン帝国の力は弱り、北方のブルガリアやセルビアの支配をうけ、15世紀に入ると今度はオットーマントルコに占領され、500年近く、その支配下に入ります。このためトルコ系の人がマイノリティとして存在します。19世紀になるとギリシャも独立を取り戻し、今度はギリシャ、セルビア、ブルガリアの間でマケドニアを争います。かくて第一次、第二次バルカン戦争になり、マケドニアは三分割さます。
 第一次大戦から1920代の間、ギリシャとトルコの間でお互いのギリシャ系、トルコ系のマイノリティを交換しエーゲ・マケドニアの方はほとんどがギリシャ系になりました。セルビアが支配していた方のマケドニアは、1918年にセルビア、クロアティア、スロベンス(後のユーゴスラビア)に分割されます。そして次はユーゴスラビア連邦としてソ連圏に組み込まれます。結局、マケドニアが独立を果たしたのは1991年のことです。しかし、今度はギリシャがマケドニアの名称を使うことに横槍を入れ、経済制裁、EC加盟を邪魔するといった具合で、1993年に、仮の国名として 前ユーゴスラビア・マケドニア共和国として国連に加盟しました。1995年に今後、領土要求をしないことと国旗の中にあった Star of Verginaという、ギリシャにとって大事らしい紋章を取り去ることを条件に、正式にマケドニア共和国となったというわけです。
 国名の意味ですが、古ギリシャ語でマケドス macedosは「高地の人」だったということです。Wikipediaによると古代ギリシャ語には違いありませんが、ヘロドツス Herodotusは高いとか、長いとかを意味するマケトノス makethnosあるいはマケタノス makethanosから来ていると言っているそうです。結局、そこに住んでいたのは「高地の人」でいいのでしょう。
 08/02/05 首都のスコピエの名前を由来を求めてこのページがヒットしたようですが、Wikipediaでは古代ギリシャ語由来らしいことは分かりますが、意味ははっきりしません。別のサイトで見ると、ギリシャ語の Σκοπο?” (Skopi)から来たもので、守るとか監視するとかの意味で、言い換えるとアレキサンダー大王の軍がアジア遠征に気をしてマケドニアを守るために造った城砦だったということのようです。Wikipediaによると、オットーマンに支配されていた時代はウシュク Uskub Uskupみたいな名前だったようです。その意味までは分かりません。セルビア語では Skopljeと呼ばれていて英語もそうだったようですが、1912年に Skopjeに改められたということです。
 国旗については1977年に発掘されたアレクサンダー大王の父であるフィリップ2世の黄金の棺の文様からとったものと言われ、中央の丸は太陽で美しい南国の自然を表わし、中央から広がる光条は世界中に行き渡る明るい太陽の光を表わしている、という記述がみつかりましたが、これは実は左の旧国旗でギリシャからクレームがついて廃止になったものです。
 現在の国旗については法律でちゃんと決まっていて、赤地に黄金色の太陽で 8本の光条を放つものとする、となっています。この法律には意味については記されていないようです。しかし、この国旗は今も海上自衛隊が使っている十六条旭日旗を思わせます。正式にはこういうんだそうです。普通は旭日旗と呼びますけど。マケドニアの国旗との関連は別にないと思いますが。
ヨーロッパの地図

↓マケドニアの地図