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リビア(Libya) .ly首都 トリポリ (99 万) (Tripoli) 北アフリカの国; 公式名 the Socialist People's Libyan Arab Jamahiriya (社会主義人民リビア-アラブ国)、最近は頭の theの代わりに Greatをつけるのが正式のようです。国土面積 1,759,541km2。南の方はサハラ砂漠ですが、タドラート アカクス Tadrart Acacusの洞窟岩絵の遺跡群を見ると かつては動植物が豊かだったようです。時代によって動植物相が変化する様子も分かるようです。人口 6,420,000人(2010)。アラブ人, ベルベル人。 公用語: アラビア語 Arabic。宗教: イスラム教スンニー派が大部分・ 通貨: ディナール dinar。北アフリカの砂漠化は新石器時代以降ということで、リビアの砂漠には、それ以前のドルメンとか、ピラミッドに似た段丘などがあるということです。 元々はベルベル人が住んでいたようですが、次々と侵略を受けて民族は入り交じっています。 首都のトリポリはカルタゴの属領としてフェニキア人が建設しました。トリポリという名称はギリシャ時代からのものですが。首都のトリポリという地名はレバノン北西部の港市にもあって歴史を調べるとき混乱します。どちらもwikipdiaではギリシャ語からきた名称でしょう。トリポリは元来、三つの都市(tri+poli)という意味で、ここではカルタゴの属国としてフェニキア人が植民して オエア Oea、サブラタ Sabrataと レプティス・マグナ sLeptis Magnaという都市を建設したことから来るんだそうです。 東の方のキレナイカ Cyrenaicaはギリシャ人が植民してキレネ Cyrene、ユエスペリデス Euhesperides(現在のベンガジ Benghazi)、ツーキラ Teuchira (現在のツクラー Tukrah)、アポロニア Apollonia (後のスサ Susah)の五都市を築きトリポリに対してペンタポリと呼ばれ、知的にも芸術的にもギリシャの一大中心になっていたようです。 ローマ時代まではトリポリに対してペンタポリは別々に発展したようです。ペンタポリは一次 エジプトのプトレマイオス朝が統治しています。前2世紀になってローマ人が侵略し、前64年にはシーザーがキレナイカと南の 先史時代に栄えたフェザン Fezzan地方も統合して ほぼ今のリビアの形になり、ローマ文化が栄えました。→第二次大戦前・植民地時代の地図 6世紀に入ってローマが衰退するとビザンチンの東ローマ帝国が取って代わりますが、全体には支配が及ばず、7世紀に入ってアラブ人が入ってきてイスラム化し、ペンタポリスはバルガ Bargaと改名されます。ローマ文化は拭い去られて今は劇場などの遺跡として名残を残すのみです。 16-19 世紀には、オスマントルコの支配下にあって、バーバリイ Barbary 地方として半独立状態にあったバーバリ諸国と呼ばれたモロッコ Morocco, アルジェリア Algeria, チュニス Tunisと並んでトリポリ Tripoliという国だったこともあります。これらバーバリ諸国は海賊が一大産業だったようで、通行料を取って払わない国の船は人質をとって身代金を取るやり方をしていました。アメリカが独立するとイギリスの旗を掲揚できなくなり海賊に襲われるようになり、1804年 トリポリに艦隊を派遣して1805年に勝利を治めます。第一次バーバリ戦争です。まだアルジェリアは海賊を継続しましたので第二次バーバリ戦争もありました。1819年には海賊業は止んだようです。 パーパリ諸国が衰退するとイギリス、フランスが手を伸ばしてきて、オスマントルコは1835年に占領しなおして直接統治に改めます。 オスマントルコが衰退してくると かつてのローマ:イタリアが戦争を仕掛け 1911年に植民地化します。イタリアにしてみればローマ領を取り戻したということでしよう。ですが 抵抗は激しく完全に平定したのは1932年です。中でもサヌーシ教団というイスラムの一派が南部のフェザンを従えて根強く抵抗し、最初はオスマントルコに、第二次大戦では連合国側について戦いました。 第二次大戦でイタリアは敗れ、トリポリとキレナイカはイギリスの管理下に、フェザンはフランスの管理下におかれました。フランスは本国はほっといて こんなところでコソコソやっていたのです。1949年の国連決議で1951年、カイロに亡命していたキレナイカの首長 イドリス I世 Idrisが王政を敷きました。 1959年に石油が発見され、リビアは最貧国からアフリカ有数の金持ちの国になります。しかし その富は王と少数のエリートに握られ、国民の不満が高まります。折しもエジプトではナセルが革命を成し遂げ、ナセルイズムとアラブ民族主義が台頭してきます。 1969年、27才の大尉にすぎないカダフィが少数のグループを率いてクーデターに成功します。カダフィ大佐が なぜ そう呼ばれるのか?誰しも 不思議に思うところです。クーデター当時は大尉だったそうで、大佐は私淑するエジプトのナセル大統領が大佐だったから真似たということです。また公職は1979年辞めたことになっていて形式上は国家元首でも何でもないらしいです。大佐以外の肩書きとしては国家保安顧問 National Security Adviserとなるようです。もう一つ「同胞の指導者および革命の先導者」(Brother Leader and Guide of the Revolution)というのが革命当時の呼び名のようです。 国名はギリシャ神話に登場するポセイドンの妻の女神 Lybiaとのことで、その元をたどると、ギリシャからみて「海(地中海)の向こう」という意味なんだそうですが、傍証がとれません。Wikipediaには広くアフリカ大陸を意味していたということで、まあ同じことでしょう。女神のことは書いてありません。綴りが違いますが Lybia, Libia, Libye and Lebyaなどと綴られていたそうで、この記事をたどると、どちらも有りのようです。 国名の最後に「ジャマーヒリア」(Jamahiriya)がつくのだそうですが、デモクラシーという意味のアラビア語だそうです。他のwikipediaの資料で見るとstate of the masses 大衆が支配する国という意味のようです。直接民主主義を自称しています。正式の国名は Great Socialist People's Libyan Arab Jamahiriyaとか Socialist People's Libyan Arab Great Jamahiriyaだそうです。
→駐日リビア大使館(外務省のページで住所がわかるだけです。) →アフリカの地図 |