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イラン(Iran) ir

首都 テヘラン (450 万) (Tehran; 旧称 Persia)

 国際電話番号 +98

 西南アジアの国; 公式名 イラン-イスラム共和国 Islamic Republic of Iran、国土面積 1,648,195 km2、人口 70,049,262人(2006)。イラン人が過半数, ほかにトルコ系, クルド人, アラブ人など. 公用語: Persian. 宗教: イスラム教シーア派(国教). 通貨: rial。
 イラン高原の歴史は古く、近隣のメソポタミア文明の影響を請けながら並び立っていたようです。歴史に登場するのは紀元前 3000年くらいで、エラム語という謎の言語を話すエラム人が紀元前 1000年くらいまで文明を築いていたようです。その言語は失われましたが、経済、社会の仕組みはハカーマニシュ朝において行政官として重用されたエラム人によって後のイランに継承されているということです。紀元前 2000年くらいになると、今のイラン人の先祖であるアーリア人が草原から流れ着きます。そして紀元前 900年くらいになってペルシャ人とメディア人がアッシリアの歴史に登場します。最初はメディア王国が栄えますが、のちにハカーマニシュ朝のペルシャに呑み込まれて、ほぼ今日のイラン人が形成されたようです。イランの古代史は現在のシリア、イラク、イラン、それにアフガニスタン、タジキスタン、ウズベキスタン、アゼルバイジャンを巻き込まないと語れないようです。
 このハカーマニシュ朝は間もなく紀元前4世紀にはアレキサンダー大王によって征服され、ギリシャの植民地になり、セレウコス朝が建ってギリシャ式の都市が多数建設されたようですが、あまり支配に力は入れておらず、パルティア人が勢力を伸ばし、紀元前 2世紀にはセレウコス朝を破りアルシャク朝(アルケサス朝)が建ちます。アルシャク朝はギリシャ文明を尊重していて、ここまではヘレニズムの時代でしたが、次第に国粋主義が芽生え、3世紀にはササーン朝が建ちます。この支配圏はハカーマニシュ朝のそれをしのぎ、インドのクシャーナ朝も支配下に置いていました。
 この頃のこの地は宗教のるつぼでもあったようです。ササーン朝は拝火教とも呼ばれるゾロアスター教を国教としていましたが、東には仏教、ローマ軍の捕虜からはキリスト教、それに、これらとユダヤ教をゴッチャ混ぜにしたマニ教がありました。そこに 7世紀半ば、アラビア半島からアラブ人がやってきて支配下に収めて今度はイスラム教が国教になります。それまでは首都は今はシリアのダマスカスでしたが、それが今はイラクのバグダットに移りました。そしてアッバース朝の時代にはアフリカ大陸北部からインドまでまたがる大版図を築きました。
 イランの国名は Aryan つまり、アーリア人の土地と言う意味で、この地域に住んでいた部族の名前からくるものらしいです。「国名の意味」のサイトには、サンスクリット語のAryana「高貴な人々」が転訛したものだとあります。とにかく、由緒正しい名前のようです。実は1935年まではペルシャと呼ばれていました。ペルシャと呼ばれていたのはギリシャ人が Persisと呼んでいたのが訛ったということですが、ギリシャ人も理由もなく Persisとしたわけではないでしょう。考えられるのは一つはパルティア人 Partiaがまだ勢力を保っていた時代に接触したか、もう一つ、今はインドにいる元はペルシャ人でアラブがイスラムを持ち込んできたために逃亡したゾロアスター教を信奉するパルシス人 Parsis、作者の想像では逃亡したパルティア人ではないか、と思いますが、このあたりがギリシャの Persisの語源でしょう。 そのペルシャは紀元前6世紀にはアケメネ王朝がインドからギリシャまで広がる帝国を築いていました。それがアレクサンダー大王に征服されたりしましたが、すぐ、独立を取り戻し、パルティア、とかササン王朝などが栄えましたが、7世紀にはアラブに敗れ、続いてセルジュク・トルコ、さらにはモンゴル、ティムールに征服されます。16世紀に、また独立を取り戻しましたが、次第にロシアとイギリスの圧力を受けるようになり、20世紀を迎えて、1951年にはモサデク首相の社会主義政権が成立しましが、アメリカ、イギリスの諜報機関の活躍で、追い落とされ、であるパーレビ王が力を持つようになり、圧政を敷きました。1979年に国王にあたるシャー Shah(自らはShahanshah つまり諸王の中の王、つまりは皇帝と名乗っていたようです。)が追放されてイスラム共和国になり、イスラムの高位の学者が国を治めるという今どき珍しい神権国家になりました。 栄光の帝国であったこの国は、かつては清濁併せ呑みながら版図を拡大していったのでしょうが、今の姿は、世の中に居所を失った人々が新興宗教に走るように、国そのものが、戒律の厳しい新興宗教に走ってしまった感があります。私は原理主義がどんなものかよく知りません。多分、原始の宗教に帰るという意味でもないでしょうが、大昔の教義を、現代の世界に適用しようという時代錯誤の思想なのだろうと想像しています。
 国旗にはイスラムの基本色のうちの三つが使われていますが、意味づけは緑がシーア派の色、白は平和、赤は共和国憲法の色なんだそうです。中央の紋章は剣と、なぜか4つの三日月なのだそうですが、アラビア語の「アッラー」を意味するのだそうです。ちょっと見るとラーメンどんぶりみたいな縁飾りがありますが、これは、アッラー・アクバル、すなわち、「アラーは偉大なり」が繰り返し、書いてあるのだそうです。
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