淡々と語られるキリスト教各派の教派の違いより ニカイア公会議 キリスト教が広まるなかで、その教義の解釈がさまざまに分かれ、何が正しいかをキリスト教で初めて325年3月20日から小アジアのニコメディア南部の町ニカイア(現トルコ共和国ブルサ県イズニク、ニケアとかニケーアも同じです。)で全教会規模の会議を開いたものです。このような公会議というわけです。東方正教会では全地公会と呼ぶらしいです。地方によって違う復活祭の日付の確定とかがあったわけですが、大議論になったのは神と、その子たるキリストが似てるけど神と人の両方であるのか(両性説、両性派)?、同じなのか(単性説、単性派)?といったことのようです。(フィリオクェ問題と呼ばれています) アリウス派 アレクサンドリアの司祭アリウス(250ごろ〜336)はキリストは父なる神の被造物、つまり人であるという説を立て、司教のアレクサンドロスによって 321年に破門され、ニケーア公会議で正式に破門、追放され、復活の動きもありましたが、結局ゲルマン人のあいだに残っていましたが 7世紀には消滅したようです。 アタナシウス派 アタナシウス(295ごろ〜373)キリストと神と聖霊は三位一体で同じであるという説でアリウスに対抗してニカイア公会議で勝ち、アリウス派の反撃で 5回も追放されたりされましたが、最後に勝ち、彼の流派が正統ということになりました。ニカイア派という呼び方もあります。 エフェソス公会議 431年に小アジアのエフェソス(エペソとも)で行われた公会議で、東方正教会では第三全地公会と呼ぶようです。議論の中心は聖母マリアが神の仲間かどうか?ということで、ネストリオスはマリアは「キリストの母」であって「神の母」ではないと主張したようです。マリアは単なる借り腹だという考えなのでしょう。これが主流になっていたら代理母出産は問題にならなかったかも知れません。彼は断罪されて、結局シリア、ペルシャで布教し、キリスト教僧侶阿羅本(あらほん)によって中国にもたらされました。中国での呼び名が景教です。これは「光り輝く教え」という意味で、どうも途中で太陽崇拝が混じったようです。中国にきてからは祖先崇拝も加わったようです。 カルケドン公会議 451年10月8日から11月1日まで、小アジアのビティニアの都市カルケドン(コンスタンティノポリスの対岸)において行われた公会議です。主要な議題はキリストが神なのか人なのか、その両方なのか?というもので、結論は神性と人性の両方がある、というものでした。この時、キリストは神であり人ではないという単性論を主張したのが単性派で異端とされましたが、今に生き残ってはいます。主流派はカルケドン派ということになります。 聖像破壊運動(イコノクラスム) 聖像のことをイコンというようですが、これはコンピュータでいうアイコンと同じです。何かを象徴するものです。この場合は神を象徴していますが。726年、東ローマ皇帝レオン3世は聖像崇拝を禁止しました。なぜ禁止したのかはっきりしませんが、コンスタンティノープルを地震が襲った原因をイコン崇拝に求めたとか、聖像を売って儲ける修道院があったとかのようです。生活に心配のない高位の聖職者は破壊派で、位の低い聖職者とか、精神世界にあまり縁のない庶民は形になったものが欲しく、擁護派だったようです。結局、破壊ということになって、だんだん厳しくなり、ほとんどの聖像が破壊されたようです。787年に「イコン自体を崇拝の対象としているのではなく、原型に向けて崇拝しているのである」になっていったんはイコン崇拝は回復されるのですが、レオン5世がまた禁止、853年にようやく聖像は名誉回復しました。 東西教会分裂 1054年にキリスト教は東西に分裂しました。その頃、西ローマ帝国はすでになく、イタリアはローマ教皇領と、その他の都市国家になっていましたが、南イタリアにノルマン人が進出してきて、教皇・レオ9世はビザンテイン帝国(東ローマ帝国です。西ローマ帝国が476年に滅亡してからは、こういう名前で呼ばれました。)と軍事同盟を結ぶべく特使を派遣したのですが、この特使がヴィザンテイン皇帝ケルラリオスとの間で教義をめぐって大論争になり、相互に破門したということで、その後、亀裂の修復は試みられたようですが、1453年にオスマントルコに首都、コンスタンティノープルを攻め落とされて東ローマ帝国帝国は滅亡し、東方正教会は結局、ロシア。ギリシャ、それにセルビアに引き継がれることになりました。 このときの大論争は西方教会たるローマ教会と東方教会とどちらが偉いか、みたいなことだったようです。ローマ教会の方は聖ペテロがキリストに命じられて教会を建てたのが、ローマ、今のヴァチカンだから、こちらが偉いということなのでしょう。ローマ教皇はペテロの後継者ということになっています。根っこは、ニカイア公会議の大議論にもあったらしいです。偶像に関してはローマの方では別に禁止したりはしていませんでしたし。 正教会は英語で言うとOrthodox Churchでオーソドックス教会、つまりこちらの方が正統だということでしょう。対してカソリック Catholicこちらは、あまねく全体といった意味で、今ではカソリックは宗派という感じですが、もともとは正教も含めて全ての教会という意味だったようです。 宗教改革 ローマ法王が1514年、免罪符なるものの販売を許可し、これに真っ向から反対したのがマルティン・ルターです。彼は聖書の福音・良い報せという意味だそうですが、それが最も大事と考える福音主義を唱え、カトリックの秘跡とかいう、しきたりになった典礼を排しました。秘跡というのは、いろいろあるようで、宗派によって呼び名も違いますが、標準的には 1.洗礼、2.堅信(傅膏)、3.聖体(聖餐)、4.赦しの秘跡または告解(痛悔)、5.叙階(神品)、6.婚姻(婚配)7.病者の塗油または終油(聖傅)の七つです。免罪符も赦しの秘跡なのでしょう。人の一生のうちには、これらの秘跡を受けて、お布施ではないけど、タダということはないでしょう。ルターは洗礼と聖餐だけで良いとしました。 ルターはルーテルとか、ルッターとか呼ばれます。普通の綴りは Lutherで、英語読みすればルーサーでしょう。ルーテルはラテン系、多分、ポルトガルあたりでしょう。ルッターにはなりそうにありませんが、Lutterで検索するとちゃんと出てきて同一人物であることが分かります。多分、ドイツ、オランダ系は Lutterなのでしょう。とにかく彼はローマ法王から破門されます。 彼の考えはローマ教皇や神聖ローマ皇帝に反感を抱く諸侯・没落しつつあった騎士・自由を求める都市の市民・封建制の重圧に苦しむ農民に受け入れられました。そして必然的に政治問題になっていきます。利害はルター支持派の中でも食い違ってきます。1524年、ルターを支持する農民が過酷な支配に対し反乱を起こす(「ドイツ農民戦争」)と、彼は最初はその指導者・ミュンツァーを支持するのですが、反乱が過激になってくると領主の側に立って結局、反乱は徹底的に鎮圧されました。 プロテスタント 1529年にルター派の諸侯が神聖ローマ帝国皇帝カール5世に宗教改革を求める「抗議書(プラテイタティオ)」を送ります。プロテスタントのの呼び名はここから出ています。ルターとは別にスイスでも宗教改革運動がおきています。こちらはカトリック司祭のウルリッヒ・ツヴィングリは聖書を重要視する教義を展開します。その後を継ぐのがフランス人 カルヴィンです。たまたまスイスに旅行して、そこで宗教改革を始めた人です。カルヴァンとも呼びますね。綴りが Calvinでフランス人だからカルヴァンが正しいと言えばそうでしょう。素直な人はカルヴィンと読むと思いますけど。もっと素直な人ならカルビン、カルバンでしょう。カルヴィンは教会の運営に牧師のほかに信者の中の長老も関わることとし、長老教会(Presbyterian)というのがその流れです。カルヴィン派は長老派(イギリス)とも呼ばれます。また改革派(ヨーロッパ大陸)とも呼ばれます。この長老派の考え方を更に民主的にしたのが会衆派(congretational church)です。長老とか言わず、地区の教会のみんなが運営に関わり、教会間に上下の関係もない独立の教会として活動するものです。日本の無教会派とも似たところがあります。ドイツではその後も政治権力との絡みで内乱状態が続き、1555年、アウグスブルグの和議でプロテスタントも信教の自由が確保され、ルター派は北方に広がり、デンマーク、スウェーデン、ノルウェーで国教になりました。 プロテスタントを特徴づけるものに予定説というのがあります。これは救われる者と救われないものは、あらかじめ神の自由裁量で定められている、というものです。救われない者にはまったく救いのない説です。そんな奴は神として認めたくありませんが、例の失楽園のミルトンもそう考えたようです。この考え方は成功する者は神の恩寵にあずかるものとして、資本主義に繋がったという説もあります。確かにアメリカには清教徒が渡って主要宗派になったわけで、関係ないこともないでしょう。カルヴィンはさらに二重予定説を唱えましたが、違いはよく分かりません。何だかアダムとイヴが最後の審判で救われるか否かにかかっているようです。 英国国教会が果たしてプロテスタントかどうか難しいところです。一応、福音主義を理念としていますが、元はと言えば、国王が離婚して気に入った女性と結婚したいがために作ったカトリック教会でしょう。聖公会とも呼ばれます。16世紀末頃、その英国国教会の内部において、ピューリタン・清教徒と呼ばれる改革派教会の方向への改革を求める人たちがでてきました。更に急進的に国教会から非合法に教会を建てようとする分離派が出てきました。その流れの中からパプテスト派が出てきました。 次は18世紀、英国のオックスフォード大学で始まった運動が、英国全土にメソジスト(方法論者)という名で広がるようになった。メソディストというのは、その運動を始めた学生たちに対する蔑称だったようです。 日本に無教会派というのがあります。内村鑑三が教会はなくとも聖書の真理を学べばよい、ということで『無教会』という聖書研究雑誌を発刊したのが始まりです。実は作者の父母は50才過ぎからその信奉者でした。父は神社では手を拍って何の矛盾も感じない、典型的な日本人でもありました。世俗の歓楽を排するメソジストに近いところがあります。また、クェーカー Quakerと呼ばれる宗派とも似たところがあるようです。Quakerは Earthquakeの親戚で、震えるという意味ですが、宗教的感動に打ち震えるんだそうです。これは分離派の流れのようです。別名がフレンド Friends、フレンズ?です。アメリカではクェーカー教徒は徴兵忌避を認められています。 これらのほか、各地にいろんな宗派があり、インド・ケーララ州のキリスト教にもいろいろ出ています。 |