トップページへ建設用語中辞典
(英仏独和)
世界の文化世界の国名・
 国旗の由来
国名から探す
和訳・日本の文化韓国地図検索ソウル地図検索釜山地図検索作者のページ
県別自治体リンク50音自治体リンク面白いサイトスパム紹介(日記)お問合わせ
このページだけが表示されたときは、こちらをクリックしてください。

アルバニア(Albania) .al

首都 ティラナ (Tirana 35万)

国際電話番号 355

 人口 3,582,205人(2003)。国土面積 28,748 km2。アルバニア人 90%, ギリシア人他. 言語: Albanian (公用語), Greek. 宗教: イスラム教 70%, ギリシア正教, カトリック。 通貨: lek。

 ギリシャの左上、イタリアの長靴のかかとの対岸にあります。ギリシャ時代のイリュリア人 Illyrianという人々が居て、その一部族にアルバノイ Albanoiが居ました。彼らは北方から南下してきて、ギリシャ人、トラキア人、マケドニア人などと入り交じったようです。アルバノイは次第にイリリア人全体を指すようになっていきました。
 その後、ローマ時代にはローマ帝国に吸収され同化して
いって、この時代に、この地から皇帝が五人も出ています。ローマ帝国が東西に分かれて東のビザンチン帝国の支配下に入ります。アルバニア人という呼称ができたのはこの時代です。
 1385年、オットーマン・トルコのバルカン地域の支配が始まり、1443-1478年に国民的英雄・スケンデルベーク・ベイ Skenderbeg bey:つまり、双頭の鷲の異名を持つゲオルゴース・カストリオト George(Gjergj) Kastriotiにより
一時は支配権を奪い返しますが、以後はオスマン・トルコに屈して、かなりの人口はイタリア、ギリシャ、エジプトなどに逃亡します。残ったアルバニア人はイスラムに改宗しました。アルバニア人は兵士として、行政官として、また商人として帝国内で名をはせていたようです。
 時が進み、オットーマンは縁辺地域の支配が手に及ばなくなってきて、ナショナリズムが台頭し、19世紀末、アルバニア人はプリズレン Prizrenと呼ばれる自治州の連合
を組み、アルバニア文字を編み出したりします。そしてバルカン諸国が連盟してオットーマン・トルコに対して第一次バルカン戦争を挑み、1912年に独立を宣言し、1913年に国際的にも認められました。
 ところが、今度は1939年、ムッソリーニのイタリアに占領され、属国とされます。第二次大戦中は国粋主義者と共産主義者が、イタリア、ドイツ軍と戦うと同時にお互いに戦い、ユーゴスラビアなどの支援で共産主義者が勝利します。そして50年にわたって共産党独裁が続き、中国が開国しても独り鎖国を続け経済は疲弊します。
 強力な指導者・エンベル・ホッジャ Enver Hoxhaが1985年に死亡し、西との関係改善に向かおうとして、1991年には多党政治に移行し1998年には憲法も基本的人権を尊重するものに改めました。選挙も1992年以来実施され、社会主義政権が復活したり
することもありましたが、現在はイラクにも派兵する親米国になっています。
 アルバニアの国名は、BC 2世紀にあったAlbanopolisという都市から来ています。その Albanは、地質が石灰岩質で白いことから、ラテン語の白だろうと言われています。ほかにもいくつかの説がありますが。
 首都・ティラナの語源でこのページがヒットしたしようですが、Wikipediaでは八つの説が示されています。それによると
  • 近傍の山々から流れ降った土が硬くかたまったものを現地語でテ・ラナ te ranatというのをギリシャ人、ローマ人がテラナンダ Theranandaと呼んでいたことからくる。
  • 6世紀にビザンチンの歴史学者・プロコピウス Procopiusが紀元前 1世紀に Daiti山に建てられた城の名前をチルカン Tirkanと呼んでいたからというもの。その遺跡はまだあるということです。なぜチルカンと呼んだかは触れてないし、チルカンからティラナへの変化もありそうにないという気がします。
  • 古代ギリシャで酪製品が、この地で取引されていたことから、古代ギリシャ語のティロス tyros から来たというもの。これもティロスからティラナへの変化は考えにくいように思います。それをいうなら、アルプスのチロル Tyrolも関係が出てきそうです。
  • この地は古代のトラキアに含まれますが、このトラキア人の神のティラス Tirasに由来するというもの。この神の名前を取った地名はたくさんあるそうです。.
  • 17世紀にこの地を征服したペルシャ人 スレイマン・パシャ Sulejman Pashaが テヘラン Tehranと名付けたというもの。これはアルバニア人が誇りにできるような名前ではなさそうです。
  • 上のスレイマン・パシャがこの地である老婆にであって、何をしてるか尋ねたところ、"Po tir an" 「絹を紡いでる」と答えたからというもの。これもアルバニア人が誇りにできるような名前ではなさそうです。
  • 中央アルバニアの方言で「降りてきた人々」、つまり最初の説で降ってきたのは土ではなくて人テローネ Trnと呼んだというものです。また方言では山から移住してきた人は Tirnとかトリアーネ Triane呼ぶのだそうです。今でもティラーネは現地ではティローネ Tirnと発音されるということです。
  • もう一つは「三つの道」を意味するトリ・アネ tri aneから来たというものです。主要な交易路が三つ集まっているところだということです。かなり説得力はあります。どうして "r"が無くなるのか不思議ではありますが。
 国旗の真ん中はイスケンデル・ベイ Iskender Beyと呼ばれる双頭の鷲で、アルバニアの民族的英雄、George Kastriota(ゲオルゴース・カストリオト)が、トルコの宮廷に人質としていたときに、武勇を認められて与えられた称号です。何でもアレクサンダー大王にちなむ称号らしいです。その彼がトルコに反乱を起こしたときの軍旗が今の国旗で、アルバニア人を「鷲の子孫」と呼んでいたのだそうです。15世紀のことです。実は、外向けの国名はアルバニアですが、自称はシュキぺリセ Shqiperise、すなわち、鷲の子孫なのです。
 アルバニアの文化に関しては、佐納康治というの大学の先生の旅行記があるので紹介しておきます。コンピュータとか情報の教授のようですが、世界中、旅をされています。
エストニア駐日大使館
ヨーロッパの地図
↓アルバニアの地図