ここに紹介するのは、健常者から、ある日、身体障害者になられた方のメールです。45歳働き盛りの2児の父親の方で、バリアフリーへの訴えを、力もない私に訴えられても、なすすべもありませんが、何人かの力のある関係者の目にとまれば、と、原文のまま、掲載します。ふだんは、バリアフリー、バリアフリーといっても、障害者の方にだって、健常者への思いやりがあっていいのでは、と考えたりしていますが、みんなが明日は我が身であるということも事実です。そのときになって、どう考えるか一つの参考になるでしょう。

リフォーム・メンテナンスが主流の意味
(物心両面のバリアフリーでリセットしよう)

理学療法士 西沢 滋和


 日本経済の牽引役の一つであったであろう建築や都市整備等の主流が新規立ち上げ事業ではなく、リフォームやメンテナンスにその仕事の内容が大きくシフトしているそうですが、何故そうなってきたのかその意味を私なりに考えてみました。
 それはおそらく社会のインフラ整備が終わりに近づき、物だけではなく心も含め人は今までの道程を大いに反省すると共にリセットして、方向転換した将来を摸索する必要性が生じたのではないのかと思うのです。
 有史以来、人類は物やお金の所有量の多さに幸せが存在しているかのように錯覚し、大自然の破壊を代表に、人類も生かされている事を忘れてしまったような傲慢な振る舞いを取り続けてきたのではないのでしょうか。
 建築や都市整備の新規立ち上げ事業の生出す物やお金の量は莫大で、その果実によって一過性でも潤う人の数も半端な量では無い事も間違いありません。
 この一過性でも潤う人の数が半端ではない所にひょっとすると人類の錯覚が生じてしまったのではないのでしょうか。
 世界に目を向けますと「グローバル化」の旗印の下、開発途上国に対して先進国等が開発に触手を伸ばしているように聞いています。
 何時まで人類は錯覚し続けるのでしょうか?有史以来、人類が取った傲慢な行いに対するしっぺ返しは繰り返されているように思います。今まではそれを上手に掻い潜ってきましたが今日迎えている様々な人類存続の危機は果たして上手にかわす事が出来るのでしょうか。私はとても心配です。
 私は42歳の時脳卒中で倒れ、その後数年かけて社会復帰させて頂いた現在46歳の男(平成15年時点)ですが、この間の経験から如何に物心両面のバリアフリーが大切なのかを痛切に感じました。超高齢社会を迎える日本では、このまま物心両面のバリアーを放置しておいたのでは取り返しの無い事態に陥ってしまうのではないのでしょうか。
多くの高齢者はバリアーだらけの地域社会に転倒等のリスクを抱えながら積極的に外出するでしょうか。高齢者を社会の財産と考えた世の中が実現できるのでしょうか。物やお金を生出しにくい状態にある高齢者を若年層は畏敬の念を抱き様々な場面で支える事が出来るのでしょうか。
 人類は今日までの手法に見切りをつけて、新しい旅立ちをしなければならない時を迎えているように思います。私はそんな気がしています。
 電車の中で人目も気にせず平気にお化粧を直す女性達、咥え煙草で歩行する女性達、小学校に乱入し生徒を無差別に殺傷してしまう男、他国民を平気で拉致してしまう国家等など人類の様々な行いは想像を絶する修正の効かない悪しき方向に傾いているような気がしています。
 こんな心の有り様で果たして環境面のバリアーが取り除けるのでしょうか。
 私はバリアフリーと表現している場面ではとかく環境面に偏って使用されている事が多いようですが心の問題の方が大きなファクターになっているように思われます。
 環境面のバリアーを取り除いていく必要性を感じるのは結局人の心だと思うからです。
 これからは人類がどうしたら半永久的に存続する事が可能かどうかを視点にした発想で、様々な事柄を考えて実行に移して行く必要があるのではないのでしょうか。この目標であれば世界の人達が手を繋ぎ易くなるでしょうし、戦争や無駄な争いも減少したり無くなる期待も抱けるのではないかと考えます。
 人類は自らの生活向上のために、様々な傲慢な行いを繰り返してきました。あたかもその時代時代に直面したバリアーを取り除くために。
 しかしよくよく直視してみると人類が破滅するのではないだろうかと考えられるバリアーの数々を産み落としている結果になっているような気がしてなりません。私達は真剣に将来を考えなくてはならない時期を迎えているような思いがしています。