理学療法士 西沢 滋和 21世紀のおける人類全ての敵として認定されたSARSですが、多くの意見の片隅に人類が行ってきた大自然に対する大きな仕打ちが、ここへきて顕在化したのではないという風聞が囁かれているようです。 SARSへの対応は人類への異体同心の大切さを示唆しているように思われます。自分勝手な、他人に対して思いやりをもてない人々の増加は自分勝手な論理で戦争さえ起こしてしまう結果を招いてしまっているように私には写ってしようがありません。マナー向上サインの増加や子育てノウハウの書籍やマスコミによる伝達等など、多くのこれらの出来事が古には存在せずそれが極々当たり前の事でしたし、人と人とのつながりを媒介として生活の知恵や技術が育まれてきたように考えます。 ところがどうでしょう。時代の潮流は目を見張る隔世の感を持たざるを得ないのではないのでしょうか。自分が死にたいからというだけで大勢の罪の無い子供たちを殺してしまう事件や電車の中では他人の目を気にせずお化粧を直す女性の姿、一歩外出すれば咥えタバコで平気な顔をして歩行する女性の姿等など、人の世の価値観が大きく狂っているような出来事を頻繁に見受けるようになってきたのではないのでしょうか。 SARSの存在は正にそのような人類の様々な行為に対する叱責にも似た警鐘ではないのかと思わざるを得ないのが私の気持ちです。 翻ってバリアフリーをSARSに換言してみましょう。人類が異体同心となってスクラムを組まないとSARSが撲滅できないように、成就できないのがバリアフリー環境の整備ではないのでしょうか。 バリアフリー環境の重要性については、日本人ばかりか世界中でも気付いていない人々が大勢おられるように思われますが、殊すぐにでも生命に関係するSARS対策には躍起になっていますが、バリアフリー対策の遅延の甚だしい状況が日本や幾つかの国には顕在化しているように見受けられます。 私は42歳の時脳卒中に倒れ、数年を用してリハビリテーション専門学校の専任教師として社会復帰させて頂けた現在46歳の2児の父親ですが、今日までの道程でバリアフリー環境の重要性を切に感じましたので前述のような主張を繰り返し行っています。 人は目先の利害には本能的に敏感に反応します。ところが数年あるいは数十年と人類に害を及ぼさないと判断してしまうと地球温暖化という重大な問題でさえ、人類の生命に何れ影響を及ぼしてくるであろう環境問題でさえその対策を後回しにしてしまう国が存在してしまうようです。日本帝国軍の毒物兵器製造の弊害が今になって顕在化している事に学必要があるのではないのでしょうか。 私は心身にとってバリアーとなる様々な要素は、ストレスとなって人類に襲い掛かっており、何れSARSのように人類の生存危機を脅かす存在になると思っています。そうなってからの対策では遅すぎるのではないのでしょうか。バリアフリー対策の遅延は人類にとって命取りになる可能性があるように思うのです。 人の眼は表面だけしか見る事が出来ないのですが、心眼は異なるのではないのでしょうか。ところが人はついつい目先の利害に飛びつき、その次に何が襲い掛かってくるかを計算に入れずに行動してしまうのではないかと思います。バブルに浮かれた後の不況に喘ぎ苦しむ有様は正にその象徴ではないのでしょうか。 SARSへの対応が間違っているとは思ってはいません。SARSの出現で人類は何かを学び何かを反省する必要があるのではないのでしょうか。 きっとSARSを撲滅する事は、人類の奥底に染み込んでいる心の垢をきれいさっぱり洗い落とす事を意味しているような気がしています。 それはとりもなおさず、人類の培った心身のバリアフリーを取り除いていく事の他ならないのかもしれません。< |