ここに紹介するのは、健常者から、ある日、身体障害者になられた方のメールです。45歳働き盛りの2児の父親の方で、バリアフリーへの訴えを、力もない私に訴えられても、なすすべもありませんが、何人かの力のある関係者の目にとまれば、と、原文のまま、掲載します。ふだんは、バリアフリー、バリアフリーといっても、障害者の方にだって、健常者への思いやりがあっていいのでは、と考えたりしていますが、みんなが明日は我が身であるということも事実です。そのときになって、どう考えるか一つの参考になるでしょう。

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プロセスの姿に人は感動するのでは?

理学療法士 西沢 滋和


 日本テレビが毎年放映する24時間テレビでの障害者等の生き様に心を動かされたり、オリンピック選手やプロスポーツ選手のタイトル取得者・ノーベル賞受賞者等のそれぞれの達成話に涙を流したりする我の姿を振り返ってみると、その他大勢がうごめいていると思われる一塊の大きな集団から一歩も二歩も抜きん出た人々のそこへ到達するまでのプロセスと、その一塊から生まれながらに精神的にも肉体的にも遅れをとってしまっているようにみられる人々や不幸にも後天的にそのような望まない状態に陥ってしまった人々の徐々にでも前進するプロセスの2点に感動されやすいのではないかと気付きました。
 人として生まれたならば、出来れば他人様に感動してもらえるような生き様を示せればと願った事が一度はあると思うのですがこんな所にそのヒントがあるのではないのではないのでしょうか。
 もっと詳しく具体的に換言するならば些細な事でも並の努力では人様に感動して頂く生き様を示す事は到底叶わないのではないかといえるのではないのでしょうか。
 人は少なからずその人なりに毎日努力を重ねながら過ごしているのだと思いますが、その努力の程度がその人達は並外れているのだと思うのです。
 では一体努力とはどういう事を示すのでしょう。
 人には万人が持って生まれて来ている「可能性の種」を持ち備えている筈です。おそらくどんな人でもその星の下に生まれたり、比類なき鍛錬や訓練を重ねさえしたならば望む人生が目の前に転がり易かったはずだろうと思われるのです。可能性とはそんな事を意味するのではないかと考えます。
 しかし現実はこれとは異なり厳しいものがあります。
 可能性が限りなく無に等しくなり浅学無才である事の結果現実が厳しく立ちはだかるのを目前にして考えてしまうのはついつい我が身の運命のはかなさ、現実の無常であって「努力」の足りなさといった我が身の至らなさではないのではないのでしょうか。
 では「努力」とは一体どんな事を意味するのでしょう。それはきっと「可能性の種」を発芽させるに必要な諸条件がそれに該当するのではないかと私は思います。
 具体的には太陽・水・肥料・土等がそれに当たるのではないのでしょうか。
 つまり「努力」とは「可能性の種」を発芽させるに必要不可欠な条件で、「努力」がなければ「可能性の種」は絶対に発芽も成長すらもしないのではないかと考えます。
 また理屈の上で「努力」の意味を理解できても、いざ実行になると何故それが具現化できないの事を多々経験するのでしょうか。
 それはとても明確な人生の目標が設定できず、安穏に日々を過ごしているからではないのでしょうか。
 もし極めて明確な目標が期日や数値等も設定されたとしたならば、重ねてその目標を必ず達成しなくてはならないと硬く強い信念が存在したならば「努力」の度合いはいかがなものでしょう。旧態依然とした過去の自分とは異なり真新しい自らを発見出来るほどの「努力」姿勢の効果が現われるものと考えます。
 「努力」という字には2つの力が必要であると表現されているように思います。1つはいうまでも肉体的な力(健康)です。もう一つは精神的な力です。この精神的な力の中でもっとも大切なのは信力だと考えます。
 その目標を絶対どんな事があっても成就させて見せるという自らを信ずる力です。この力こそ「可能性の種」を発芽させる原動力になり自らの人生を望む方向に向かわせ、結果的に人様にその生き様が感動を呼ぶのではないのでしょうか。
 隣の芝生は本当に良く見えてしまいます。水藻に泳ぐ白鳥の優雅さから水中でもがいている2本の足をどうして想像出来ましょう。
 しかし「努力」無くして甘い蜜は絶対手に入らない事を私達は改めて認識する必要があるのではないのでしょうか。
 どこか狂って見える現在の日本、それぞれが原点に立ち返ってみる必要があるように思われます。