理学療法士 西沢 滋和 ある飲食店で、いかにもリストラされた末がそのお店のアルバイト店員で働かざるを得ない中高年の姿をチラホラと見受けるようになりましたが、過日おそらくそんな中高年と思われる男性に10代後半と見受けられる男性がその中高年者に激励の言葉をかけている光景に出くわしました。時代を反映する一齣で一見、見過ごしてしまうような場面でしたが、私はそんな光景から以下のような事を思いました。 1つはリストラとは正にお金や物を中心とした尺度で行われた人の行動で、今までの大量生産大量消費下で心や命等の価値基準を低くしてしまった付けがここに巡り巡ってきたように見受けられた点です。 もう1つは哀れみ・同情といった失われつつあった他人を思いやる心の復活劇をその若者に垣間見たような思いがしました。 現在の世の中の全ての潮流に大きな変化をもたらさないと、人類は破滅の道を一直線に突っ走っているような気がしてなりません。 凶悪犯罪や自殺者の増加、公衆マナーの著しい低下、「らしさ」の欠落、地球温暖化問題、他国への侵略等など人類社会の将来を不安視させる材料には事欠く事の無い今日ではないのでしょうか。「望まれる救世主の出現」こんな思いを抱くのは私だけなのでしょうか? 閑話休題。 何故あなたは生きていますか?この問いに即答出来ないあなたは一体何のためにこの世に生を受けているのでしょうか?ただ息をしているためなのでしょうか?毎日3色食べるためだけなのでしょうか?排泄するためあるいは寝るためなのでしょうか?仕事のためなのでしょうか?お金のためなのでしょうか? 色々とその理由は存在するかもしれませんが、このような返答しか無いとしたならばとても悲しく貧しいあなた自身の生の価値しか存在していないのではないかといわざるを得ないのではないのでしょうか!? 人は例外的な存在を除いて、その多くが何かしらの存在価値を見出していないと生きていけない動物だと思います。無為に長い時間を無駄に費やしてしまってはあなた自身の人生という花を咲き誇らせる事が出来るのでしょうか。 私達には必ず持ち備えている種が心の底に宿っているように思われます。その種とは「可能性の種」だと私は思います。どんな人でも触れる縁によって総理大臣にも成れるし、大泥棒にも成ってしまうのではないのでしょうか。「可能性の種」が良縁に触れる事こそが総理大臣になれる可能性の種の発芽を促すのではないかと考えますが、その良縁とは換言すれば「努力」ではないのでしょうか。 「努力」。文字で書くととても簡単ですがこの2文字が実行できないが為に大半の人が悔いを残すような体験を過去にたくさん山積みしているような気がします。 では「努力」とは具体的にどのような事を意味するのでしょうか? 「可能性の種」を良好に発芽させるには太陽や水、肥料、土等の条件が必然的に揃っていなくてはならないと思いますが、この必然的条件の全てを「努力」という文字に置き換える事が出来るのではないかと思うのです。 つまり「努力」とは自分の姿勢次第でプラスにもマイナスにも働く触媒のようなものではないかと考えるのです。 人は自らの「努力」の至らなさを棚に上げて、隣の芝生ばかり羨んでしまう傾向があるように思われますが、先にも述べましたように「努力」無くして「可能性の種」が発芽する事は絶対にないのではないのでしょうか。歌詞にもありますがついつい運の善し悪しに気を取られがちで自らの「努力」の無さを悔い改めようとはしないように思われます。 十歩譲ってお金や社会的地位・社会的名誉獲得の人生であったにせよ(自分だけのための人生目標なのであまり好ましいとは思いません。だから十歩譲ってという表現を加えました)「努力」の文字は常に付き纏うものであるのではないのでしょうか。 お金や物のためだけの人生、仕事のためだけの人生等が生きていくのに失ってはならない大切なものを忘却してしまったような思いがしています。 不幸にもリストラされてしまった同じ人の姿から、私達は何を学び取らなければならないかを真剣に考えようではありませんか! |