ここに紹介するのは、健常者から、ある日、身体障害者になられた方のメールです。45歳働き盛りの2児の父親の方で、バリアフリーへの訴えを、力もない私に訴えられても、なすすべもありませんが、何人かの力のある関係者の目にとまれば、と、原文のまま、掲載します。ふだんは、バリアフリー、バリアフリーといっても、障害者の方にだって、健常者への思いやりがあっていいのでは、と考えたりしていますが、みんなが明日は我が身であるということも事実です。そのときになって、どう考えるか一つの参考になるでしょう。

こんな事さえ出来なくなる!
(障害者の行動実態、体験から)

理学療法士 西沢 滋和

 程度の差はありましても、一度後遺症により運動障害を招きますと、以下のような健常時には想像も及ばない事が遂行不可能あるいは遂行にとても苦労するレベルになってきます。
 私が障害者の代表といううがった気持ちはさらさらありません。只、皆さん以下の事をどうぞ理解して欲しいし、是非これからの生活やお仕事にご参考にして頂ければ幸いに存じます。

こんな事が出来なくなります!
1、信号が変わる目一杯の時間内に横断歩道が渡れなくなります。日本にはこのような状態に時間的に配慮した信号機が少ないのです。(肢体不自由者は歩行にとても時間が費やされるのです)
2、昇りより降りの方が足の筋力が必要なので、降りの方が上りより4,5倍時間が必要になります。降りのエスカレーター設置が著しく少ないのです。
3、道路脇の水はけ用の平坦な傾斜でもバランスを崩し倒れそうになってしまいます。
4、歩行道路のちょっとした凹みにもつまずきそうになります。
5、点字ブロックが雨降りの時は特にすべりそうな要因になるし、天気の日はつまずきやすい要因になってしまいます。
6、同名半盲という視野狭窄障害の人は注意していても障害側から現れる人に頻繁にぶつかってしまうようになります。
7、健常者の1/3以下と言う著しい体力の低下を来たし非常に疲れやくなりますが、日本にはちょっと腰をおろして休憩する場所が著しく少ないのです。
8、車椅子の人は床に落としたものさえ、拾い上げることが出来ない場合があります。
9、左半身不随の人は右の手すりを使って歩行したいのですが、通路や階段に左通行と表示があると自分だけ逆方向に歩行しなければならないためプレッシャーを感じています。人通りが多いと尚更です。
10、些細な坂道、凸凹でも車椅子を自走して昇る時には想像以上に強い力と体力が必要となりますし、転倒しそうになります。
11、些細な坂道を車椅子で降る時、降るスピードが著しくなるため恐怖感に襲われることがありますし、勾配がきついと昇り以上にブレーキに使う腕や手の力が必要になります。
12、ラッシュアワー時間帯には、電車その他の交通機関の利用が困難になるケースがほとんどです。
13、嚥下障害(飲み込み障害)がある人は気管に食べ物や水分が入りやすく咳き込んで口に含んだ物を吐き出す可能性があるので、人前での食事や人と一緒の食事を避けたり控えるようになります。
14、手すりに人が寄りかかっているとその手すりを使用したい時等、その人の存在がとても邪魔に感じることがあります。
15、障害の種類によっては外見上、障害者に見えない時があります。そういう人もいるという認識をお持ち戴きたいと思います。
16、障害者用エレベーターの多くが不便な場所にあるし、便利な場所にあるエレベーターでは健常者の利用が目立ちます。(障害者用の駐車スペースにも同じ状況が伺えます。障害者の利用を阻害してしまう頻繁な健常者の利用はいかがなものかと思っています)
17、路線バスの乗降ステップに異常な高さがあり利用にとても苦労します。
18、障害者にとって、移動補助用具(車椅子、杖、歩行器等)は命の次に必要不可欠な存在、道具である事を認識いただきたいと思います。
19、障害者になった途端、今までとは接する言動が変わってしまうと、世間は冷たいなーと感じます。
20、1〜2センチの段差でも跨ぐ事ができずつまずきやすくなります。
21、手すりに全体重をかけて移動しているため、手すりの連続性が遮断されると困惑を隠しきれない状況に陥ります。
22、手すりは手を滑らせて利用するため、壁に取り付ける手すり止めと指がぶつかってとても邪魔な事を感じる時があります。
 上記は極軽度の左半身不随となった障害者となった私の体験を中心に列挙したため、ごく一部の例に留まっていると思われます。

バリアフリーは他人事ではない

(活力ある高齢社会を築く前提)
 私は脳卒中の後遺症で1種3級の障害者になりました。障害者になって、初めて分かった事が幾つもありましたが、殊バリアフリーの都市開発と家屋改造の重要性については、これから到来する超高齢社会にとって高齢者が社会参加して社会全体が活力を維持する上でとてもその大切さを痛感しました。
高齢者は体の機能が衰えるため障害者と捉えたほうが良いでしょう。だから1日も早くバリアフリー国家樹立の声を大にして皆さんにお伝えしたいと思います。

動的生活の大切さ(外出できる事を目指して)

介護は疾病の急性安静期を除けば動的要素を取り入れた場面に移行し、治療回復を手伝うに変貌していくべきだと考えています。つまり私は動的な生活、状態が障害者の将来のあらゆる面でとても重要ではないかと受け止めています。そのための基本として外出行動が一番大切ではないか、ここに原点が存在するのではないかと思っています。1人で自由に外出できるということは、経済活動からも精神活動からも、あらゆる面で重要なファクターではないかと思っています。
そんな重要な外出行動に対し、果たして障害を持ってもこの国では自由に外へ1人で出て行けるか考えた人がいたでしょうか?障害を持ってもこの国では社会参加できるでしょうか?答えは冒頭の私の体験例でもお分かりのように、残念ながら積極的な社会参加ができにくい社会が現実には存在していると答えざるを得ません。

バリアーが少ない家屋と都市の接点が重要(移送サービスの充実も大切)

バリアフリーの家屋と都市整備がそこに存在しても、実際に家屋から近所に出られる手立てが確立していないと、何のためのバリアフリーか分かりません。又、いくら電動車椅子を普及させても使用のままなら無い人にとっては電動車椅子に変わる移送手段が必要になってきます。
加えて、電動車椅子の交通事故が著しく増加傾向があると聞いています。車椅子利用者が気兼ねなく外出できるには、車椅子レーンの普及もインフラとして必要になるような気がします。このようにインフラ整備には枚挙に暇がありません。理解して戴きたいのは、こうした整備が健常者にとっても不利になることでは一つもないということです。障害者や高齢者のことを鑑みたインフラについては、とかく健常者は関心が薄く特異的な事と誤解しがちですが、障害者や高齢者のためになるばかりか健常者の皆さんのためになる事も忘れないで下さい。
冒頭、障害者がこんな事も出来なくなるとを私の体験を元に記載いたしましたが、是非、頭の片隅に置いたいただき加齢と共に体力が衰える自分の身に置き換えて考えていただき、都市整備に不都合があるとしたらどうしたら善いか考えて頂ければ幸いです。
西沢 滋和