理学療法士 西沢 滋和 私は平成15年現在46歳になる2児の父親です。42歳の時脳卒中で倒れ約半年間の入院後数年かけて極々軽い障害を残しつつも社会復帰させて頂いた男です。この場でお世話になりました大勢の皆さんに厚くお礼申し上げたいと存じます。 この間、特に日本におけるバリアフリー整備環境の遅れを痛切に感じその改善に様々な活動を施行している最中ですが、その1つに点字ブロックの形態改良を提案させて戴いておりました。 当初その提案の中に現在の上に突ではなく下に突の形態に点字ブロックを変えたらどうかと申し上げたのですが、下に突の形態にしたのでは凹みに雨の際は水がたまり、冬の場合にはその水が凍ってしまい滑りやすくなってしまう可能性が高くなってしまうご指摘を戴き、言われてみるとおっしゃる通りだな―と感じた次第です。 そこで改めて呼びかけたいと思います。 現在の点字ブロックの形態では、正直言って肢体不自由者には雨の日は滑りやすく普段の日は躓き易いとてもやっかいな存在であるし歩行するには往々にして邪魔に思えてしまうのです。 しかし視覚障害者にはなくてはならない存在が点字ブロックなのですから、双方にとってその存在が有益になるような形態を、皆さんの知恵で考えて頂ければ有難く存じます。もちろん私も思案投首したいと思います。 どんな障害者にとっても、いや人間にとっては外出して他人と接する事は人が生きていける根源であるのではないのでしょうか。外出も出来ず家や部屋に閉じこもりきりの生活や誰とも接触も会話も無い毎日を強いられたとしたならば皆さんはどう思われるでしょう。私は病後初期には家人が付き添わなくては自由に外出できず、それに伴い接触する人の制限も存在してしまった時間を経験しましたが正直申し上げ気が狂いそうになった思いがそこには生じました。 つまりそのとても重要な外出行動を妨げるような点字ブロックの形態を私は皆さんの知恵で肢体不自由者にも視覚障害者にも有益な存在となるように改良していかなければならないと思いました。 肢体不自由者と視覚障害者の共存を考えたインフラ整備はあたかも野生の動植物と人間が如何にしたら共存でき繁栄し続けられるかを考える事に似ているような気がします。どちらかが犠牲になるのではなく、どちらも成り立つ環境を模索し構築していく必要があるのではないかと思います。 共存を前提にした場合、自らの存在のみを主張したのでは共存する事はとても困難を来たしてしまうように考えます。男が女と、キリスト教国家がイスラム教国家と、先生が生徒と、親が子と、健常者が障害者と、大人が子供と例を上げたら切がありませんがこのような関係が同じ地球上に共存していくにはきっと自らの事ばかりを主張したのでは成り立たなくなるのではないのでしょうか。 外出する事の効用は思いの他計り知れないと私は思います。心身に与える刺激の大きさはとてつもなくそれらを処理すること事態が最大のリハビリテーションになっているような気がします。 点字ブロックの存在は意識するとこのような視点でその存在を受け止められる事が出来るのではないのでしょうか。 共存と外出の頭に「安心して」という言葉を接続しますと果たして現状はどうでしょう。安心して共存できる社会か?安心して外出できる社会か?細かく観察しなくてはならない諸問題が今日では山積しているのではないのでしょうか。 たかが点字ブロックの行方かもしれませんが、換言しますと意外にも人類の心のありようがこんな所にも繁栄しているような気がします。 |