理学療法士 西沢 滋和 バリアフリー対策外果に重要であるか、私は42歳の時脳卒中で倒れ数年かけて社会復帰させて頂けた現在46歳2児の父親ですが、この間の経験から体に染みて理解しているつもりです。 至る所で至る場面でバリアフリー環境のいたらなさを体験しました。ごく一部を下記にご紹介しますと、 1、信号が変わる目一杯の時間内に横断歩道が渡れなくなります。日本にはこのような状態に時間的に配慮した信号機が少ないのです。(肢体不自由者は歩行にとても時間が費やされるのです) 2、昇りより降りの方が足の筋力が必要なので、降りの方が上りより4,5倍時間が必要になります。降りのエスカレーター設置が著しく少ないのです。 3、道路脇の水はけ用の比較的平坦な傾斜でもバランスを崩し、倒れそうになってしまいます。 4、歩行道路のほんのちょっとした凹みにも躓きそうになります。 5、点字ブロックが雨降りの時は特にすべりそうな要因になるし、天気の日は躓き易い要因になってしまいます。(滑りにくい素材で凸ブロックではなく、凹ブロックではいかがなものか?) 6、同名半盲という視野狭窄障害の人は注意していても障害側から現れる人に頻繁にぶつかってしまうようになります。 7、健常者の1/3以下と言う著しい体力の低下を来たし非常に疲れやくなりますが、日本にはちょっと腰をおろして休憩する場所が著しく少ないのです。 8、車椅子の人は床に落としたものさえ、拾い上げることが出来ない場合があります。 9、左半身不随の人は右の手すりを使って歩行したいのですが、通路や階段に左通行と表示があると自分だけ逆方向に歩行しなければならないためプレッシャーを感じています。人通りが多いと尚更です。 10、些細な坂道、凸凹でも車椅子を自走して昇る時には想像以上に強い力と体力が必要となりますし、転倒しそうになります。乗りごごちも最悪です。 11、些細な坂道を車椅子で降る時、降るスピードが著しくなるため恐怖感に襲われることがありますし、勾配がきついと昇り以上にブレーキに使う腕や手の力が必要になります。 12、ラッシュアワー時間帯には、電車その他の交通機関の利用が困難になるケースがほとんどです。 13、嚥下障害(飲み込み障害)がある人は気管に食べ物や水分が入りやすく咳き込んで口に含んだ物を吐き出す可能性があるので、人前での食事や人と一緒の食事を避けたり控えるようになります。 14、手すりに人が寄りかかっているとその手すりを使用したい時等、その人の存在がとても邪魔に感じることがあります。 15、障害の種類によっては外見上、障害者に見えない時があります。そうであっても障害の程度が重い人もいるという認識をお持ち戴きたいと思います。 16、障害者用エレベーターの多くが不便な場所にあるし、便利な場所にあるエレベーターでは健常者の利用が目立ちます。(障害者用の駐車スペースにも同じ状況が伺えます。障害者の利用を阻害してしまう頻繁な健常者の利用はいかがなものかと思っています) 17、路線バスの乗降ステップに異常な高さがあり利用にとても苦労します。 18、障害者にとって、移動補助用具(車椅子、杖、歩行器等)は命の次に必要不可欠な存在、道具である事を認識いただきたいと思います。 19、障害者になった途端、今までとは接する言動が変わってしまうと、世間は冷たいなーと感じます。 20、1〜2センチの段差でも跨ぐ事ができず躓き(つまずき)易くなります。 21、手すりに全体重をかけて移動しているため、手すりの連続性が遮断されると困惑を隠しきれない状況に陥ります。 22、手すりは手を滑らせて利用するため、壁に取り付ける手すり止めと指がぶつかってとてもその存在が邪魔に感じる時があります。 23、少し論点は異なりますが,杖をついて歩行していた頃は駅のホームにいると通過電車の風圧でその場に転倒しそうになった記憶があります。ホーム側にも扉がある必要性を感じた出来事でもありました。 以上は脳卒中により極軽度の左半身不随となった障害者となった当初の私の体験を中心に列挙したため、ごく一部の例に留まっていると思われます。また前述した内容は障害者の一方的な訴えです。ご容赦ください。 閑話休題。 将来不安は世相を反映して増加の一途を辿っているように思われます。不安の払拭に政治家諸氏は躍起になっているようで様々な対策を講じているように思われますが、肝心要であると思われるバリアフリー対策については心血注いでその向上の大切さを訴え、実現に寄与しようとする政治家が1人も見受けられないのはとても寂しいし、脳卒中で障害者になった私にとっては将来不安が益々助長されてしまう思いです。 超高齢社会は目前に迫り、車椅子利用障害者は日本に約400万人存在しているのではないかといわれていますが、この現実に直面した様々な対策を実行に移している最中が日本の現在の姿ではないかと思われます。 でもその対策には的はずれが多く、実はその実効の根幹を支えているのがバリアフリー対策ではないのでしょうか。バリアフリーといえば環境面も重要ですが、それ以上に心のバリアフリーの方が大切なように思われます。 以前、ある鉄道会社の障害者用トイレの扉には1枚を張り紙がありました。読んでみると「このトイレをご使用される方は係員お呼び下さい」と書いてありました。私はとんでもない張り紙ではないのかと思いました。そこにバリアフリーをアジャストした環境が存在していても、それを使用する人の考えでその環境が生きたり死んでしまったりする例の1つではないのかと思いますし、心のバリアフリーが大切ではないかと考える1つの根拠がこのような場面に遭遇したため生まれてきました。バリアフリー環境をせっかく手に入れても、持つ人によっては無用の長物になってしまう可能性が生じてしまうのではないのでしょうか。 高齢者や障害者のみならず、人は自由に1人で外出でき社会参加してこそ自らの存在価値を見出す事が、あるいは刺激を受ける事のできる生活を送る事が出来るのではないかと経験上からも考えます。極端に言えばどんな人でも1人で自由の外出できないとしたならば、自らの存在価値を自然と身についていける事と思います。 バリアフリー環境はおそらくこのような思いを実現するであろう1つのそれも大きなファクターになっているのではないのかと考えますし、実効をあげなくてはならい重要な環境整備ではないのかと思います。 如何に1人で自由に生活行為が遂行できる事が素晴らしい事か、私は現実に体験しましたので声を大にして叫びたいのです。何気なく毎日繰り返し行っている日常の行為がどんなにか薔薇色の時間であるか、1度障害を味わい人の手を借りなければ生活出来なかった過去の体験のある私にはこのような思いがとても強いのです。 もう1点、私はとてもバリアフリー後進国日本に何故このような現状が横たえているか疑問が存在しています。 高齢者の増加や障害者の増加等から鑑みますと、もう少しバリアフリー環境がアジャストされても良いのではないのかと考えますが何故遅延しているのでしょうか。 以下は私の思いですが、きっと高齢者や障害者等に対する日本の対策がバリアフリー以外に傾注されているのではないのかと考えています。日本人はお金や物の生産に著しく寄与しないと見られるとその人の社会的価値を低く見てしまう傾向にあるのではないのでしょうか。高齢者や障害者等は正にその典型とみなされているような気がしています。 したがってその対象者を再び生産活動に従事して頂こうと考えず、健常者の生産コストに反映する対象にしてしまっているのではないのでしょうか。その結果それらの人の自立して頂く生活を支援する対策ではなく、健常者がそれらの人の存在から如何にお金や物を生出していくかだけに視点が偏ってしまったのではないかと思っています。 今後人口は減少していく見通しですし、高齢化は益々進み日本人の価値判断傾向からすればお金や物を生産できない人口は増えてきます。 バリアフリーとは将来に明るい日本の構築のために、心のバリアフリーも含め一石を投じてくれるとても重要なファクターではないのでしょうか。自分の事です。目先のお金や物に気を取られずに、真剣な眼差しで前を向いてお互い歩んでいこうではありませんか! |