ここに紹介するのは、健常者から、ある日、身体障害者になられた方のメールです。45歳働き盛りの2児の父親の方で、バリアフリーへの訴えを、力もない私に訴えられても、なすすべもありませんが、何人かの力のある関係者の目にとまれば、と、原文のまま、掲載します。ふだんは、バリアフリー、バリアフリーといっても、障害者の方にだって、健常者への思いやりがあっていいのでは、と考えたりしていますが、みんなが明日は我が身であるということも事実です。そのときになって、どう考えるか一つの参考になるでしょう。

警鐘!早急にバリアフリー国家の樹立を!


発症


 一九九九年、平成十一年八月一日、日曜日の夜、自宅で両側の椎骨動脈の解離(脳卒中の一種)を発症、とてもひどいめまいのため立っていられなくなり、倒れたため救急車で東京医科大学病院に運ばれ緊急入院しました。約3ヵ月後本格的にリハビリテーション訓練に取り組むために東京都リハビリテーション病院に転院。こちらにも約3ヶ月間入院しこの体験を大勢の人に伝えるため、リハビリテーションの専門学校に教官として勤務するに至った次第です。後遺症としては構音障害(言語障害の一種)、歩行障害、嚥下障害(飲み込みの障害)、左同名半盲(視野狭窄の事)、左半身温痛覚消失などがありますが、どれもが軽い障害で済みました。



バリアフリーは他人事ではない


(活力ある高齢社会を築く前提)

 私は脳卒中の後遺症で1種3級の障害者になりました。障害者になって、初めて分かった事が幾つもありましたが、殊バリアフリーの都市開発と家屋改造の重要性については、これから到来する超高齢社会にとって高齢者が社会参加して社会全体が活力を維持する上でとてもその大切さを痛感したのでお伝えします。

高齢者は、言ってみれば、体の機能が衰えるため障害者と捉えたほうが良いでしょう。このような考えに基づき、ここでの主張がなされています。一人でも大勢の人が共感していただければ幸いです。



バリアーだらけの日本


 段差は多く、坂道だらけ、凸凹は多いし、障害者が利用する設備はとても不便なところに設置しており健常者の利用が多く代えって気を使います。また、下りのエスカレーターが著しく少ない等、この国はバリアーだらけで、障害者への配慮の無さを指摘したら枚挙に暇がありません。

これから足腰が弱る高齢者だらけになることを想像すると、ほとんどの高齢者がこのままでは外に自由に出られず、家に閉じこもってしまう姿が目に浮かぶようです。これでは高齢者を社会の財産として生かすことは不可能になり、数少ない若年者の負担は計り知れないものとなるでしょう。一体どうしたらよいのでしょう。



徹底したバリアフリーの必要性


わが国では、車椅子利用者が推定400万人いると言われていますがその人達が外に出て、購買活動をしたらどうなるでしょう。おそらく経済は活性されるでしょう。高齢者も含めたら、もっと効果は期待されるでしょう。

ところが日本のインフラ整備はとてもお粗末で車椅子を自分で操作し、自由に社会参加できるような環境は残念ながらまったくと言って良いほどありません。これから近い将来には高齢者が著しく増加しますが、このままでは社会が高齢者の活力を生かすことができにくくなります。皆さん、目を見開いて早くこのことに気付いて下さい。生きていれば必ずあなたも年寄りになるのです。年をとると足腰が弱り、国のインフラサービスが障害者や虚弱老人向けになっていないことを痛感するはずです。このままでは外にも出られず家に閉じこもった生活を強いられることになりますよ!私はそのような生活を一時経験しましたが、気が狂いそうなぐらいとても辛い時期でした。皆さんもそんな生活をしたいと思いますか?バリアフリーの徹底した都市を目指すことと、電動車椅子(電動車椅子で無いと坂道を登れないし、段差などが越えられない)等と歩行者が安全に共存できるインフラ整備が急務ではないかと考えています。



バリアーが少ない家屋と都市の接点が重要(移送サービスの充実も大切)

バリアフリーの家屋と都市整備がそこに存在しても、実際に家屋から近所に出られる手立てが確立していないと、何のためのバリアフリーか分かりません。又、いくら電動車椅子を普及させても使用のままなら無い人にとっては電動車椅子に変わる移送手段が必要になってきます。

加えて、電動車椅子の交通事故が著しく増加傾向があると聞いています。車椅子利用者が気兼ねなく外出できるには、車椅子レーンの普及もインフラとして必要になるような気がします。

また、車椅子に乗った障害者等と地域とを結ぶ、例えば自動車等の乗り入れが容易にできるロケーションが整備される事が必要になる事になるでしょう。このようにインフラサービスには枚挙に暇がありません。理解して戴きたいのは、こうした整備が健常者にとっても不利になることでは一つもないということです。障害者や高齢者のことを鑑みたインフラについては、とかく健常者は関心が薄く誤解しがちですが、健常者の皆さんのためになることばかりが障害者や高齢者のインフラ対策なのです。



「らしく」生きるとは


 障害を持ち続け、その人らしく生きていけるよう援助することが大切だとよく言われますが、端的に言うとそれは難しいことだといえます。その人らしく生きていくのではなく、生まれ変わった気持ちで自分らしさを見つけていくことを援助していくという表現の方が適切だと考えます。

障害を持てば生物学的に、以前とはまったく異なった個体になるわけです。それにより、大きく精神面も変化します。障害を持つ前の、以前の状態に生物学的にも精神的にも復元することは不可能に近い、とても苦労を要する事だと言わざるを得ません。だから、いたずらにその人を元に戻そうとしたり期待させたりしては、代えってその人に苦痛を招いきモチベーションを下げてしまうので注意が必要です。これは時間差があるものの年を重ねていくことと似てるように思います。



心のバリアフリーは現状認識から


 社会のインフラ整備としてバリアフリーが大切なのは誰しもが頭では理解できますが、残念ながら現実にはバリアフリーが普及しているとはお世辞にもいえません。そこには心のバリアフリーが必要だと多くの人が指摘していますが、人は実体験しないと心から理解できない存在なので、実際に高齢社会が到来し自らが痛みを感じないとバリアフリーは促進されないかもしれません。足腰が弱り、家に閉じこもりがちになり始めてバリアフリーの必要性に気付くのです。虚弱老人になってからでは遅すぎます。



動的介護と静的介護


介護は疾病の急性安静期を除けば動的に治療回復を手伝うことが必要で、これを私は動的介護という言葉で表現したいと思います。

したがって理学療法は動的介護だと思います。(作業療法や看護の事は分からないので触れませんし、ここでリハビリテーションが治療か介護の範疇に含まれるか?について論議するつもりはありません)理学療法の対象者は後遺症に悩む人々、障害をお持ちの方と受け止められがちですが、運動を考えるとその対象者には健常者も含まれます。運動の効用を考えるとそこには疾病を予防する色彩が強く打ち出されるからです。

つまり対象者でその目的が異なるのが理学療法だと思います。運動の効用は数限りなくあります。理学療法士は果たしてそれを理解しているでしょうか?きちんと運動なるものがその患者さんに適切に施行できるでしょうか?糖尿病患者が増加していますが、そのような患者に適切な運動が施せるでしょうか?学校の机上で勉強ではここまでカバーすることはできません。やはり臨床に出てから自分で勉強するしかありません。時代の潮流を的確に把握し、今望まれている理学療法士を目指そうではありませんか!



動的介護にはリスクが伴うもの!


 運動の効用、体を積極的に動かす効用が健康に役立ったり疾病の予防に役立つことは医療従事者ならば常識になっているはずですがベクトルがまだまだそちらの方に向いていない場面に遭遇します。言ってみればその医療現場では十分なリスク管理体制が整っていないのではないのでしょうか?糖尿病の増加はいまや社会問題になっていますが、その治療の柱の1つに運動療法があります。今きちんと運動処方できる医療従事者が何人存在しているでしょうか?ごく一部の医師だけではないでしょうか?理学療法士は運動療法を柱として患者の社会復帰を支援していますが、糖尿病患者などに対し、リスクも管理した運動療法を適切に施せたり医師が処方した運動療法を適切に具体化できる理学療法士が何人存在するのでしょうか?職域の拡大と言う言葉がありますが、こんな所にも理学療法士の職域は拡大できるでしょう。



介護は社会全体で支えるもの、家族だけが犠牲にならないこと


 介護保険の理念は介護の社会化がその目的の一つにあります。また動的介護を実現するには素人の家族ではなかなか困難です。介護で犠牲になった人生を数年過ごした家族の思いは、少なからず介護を受ける人が他界するとホッとしたといいます。奇麗事ではかたずけられないのが介護の問題がこの場面に凝縮しているように思います。

つまり、介護とはやはり専門知識や技術が必要な場面だといえるのではないのでしょうか?そのレベルの高さが望まれるほどその傾向は強いと思われます。家族の介護の大半は専門的な知識・技術が介在しにくい、情熱だけに支えられているのではないのでしょうか。



医師は介護に手を出すな!(医師は科学者で介護の専門家ではない)


私は、病院の事務長職を経験した理学療法士です。二〇〇二年四月、診療報酬の改定の感想を述べさせていただきます。今回の改定は、今までの部署別単位増収作戦ではまったく通用せず法人全体、病院全体で収入を検討するような改定となっているように思います。これに対して、医療という人の命に関わる、世の中の根底を支えるサービスを医師が担っている事に、また、世の中の多くの人がそう受け止めたことに胡坐をかき慢心、過信した結果、時代の潮流に旧態依然とした対応しかとれない姿を、医師自身が露呈したといわざるを得ないと思います。今日まで医療はキュア(治療)の質の向上に全力を挙げてきましたが、その結果すべてとは言いませんが、人の命の尊厳について考えさせられる現象を招いたのも事実で、その尊厳の向上を図ろうとして、医師たちの多くの意見に逆らい、今まさに、キュアからケア(介護)の質の向上を目指そうとしています。(以前から厚生労働省側の潮流はありました)持論として、キュアは病気に侵される前のその人らしさに戻すことが役割だと思っています。只命を救う、命を救っても後遺症を残す、この状態を私はキュアとは認めませんし、認めたくないのです。そう考えると医師の研鑽することはまだまだたくさんあり、ケアに首を突っ込む暇などないと思いますし、ケアを学んだことのない医師が違う分野を担うこと自体おかしな事といわざるを得ません。

私は医師たちを批判しているのではなく、医科学者としてより高度な技術の開発に取り組んでいただきたいと期待しているのです。

ケアを専門に学んだ専門家はたくさんいます。医師は自分の持っている社会的ステータスを今までは他のスタッフをリードすることで保ってきました。しかしこれからは、他のスタッフを生かすことで地位を保つ時代が到来したと言えます。これからの医療は医師の立場と同じで、他のスタッフの地位、学問の向上なくして発展しないのではないでしょうか。これができるのは、立場上、唯一医師だけだと考えます。医師には人格者が多く、私はこの変化をとても期待している次第です。

加えて、医師の持つ権限は絶大です。その分権限が集中しすぎて、仕事が多忙となり、ともすると医療事故・医療ミスに結びつくとも限りません。それほど忙しいのが医師なのです。

また医療だけにとどまらず、サービスの選択肢をいかに増やすか、サービスの量が乏しいとしたらいかに特異的な特殊なサービスを整える事が、また、ライフサイクルを意識したサービスをどう整えるかを、これからの生き残り作戦を実行しないと取り返しのつかないことになるのではないのでしょうか。

これからは定額サービスの時代ですし、介護報酬も改定の度に減額されるでしょう。国費で医療、介護の普及を図ることから、民間の医療保険を利用して、効率よく医療や福祉の普及を図っていく時代に変わっています。いよいよDRG(疾患別に治療を定形分類すること)が現実味を帯びてきました。不必要なサービスは包括されてしまいます。(たとえば、無資格者でもできるリハビリ訓練等)民間が不必要なことはしません。与えられたお金で、たくさんのサービス業務の省力化、差別化を考え、どのように展開普及いくか考えています。それには先ず、このような考えが納得できるスタッフを集めることです。甘い蜜に蟻が群がるように今こそしっかりとしたオーナーの考えが必要だし、その考えに人が集まる時代になったと言えます。

具体的な戦略は個々の法人などによって異なりますが、次に大切なのは、その戦略を実現させる強い意志を持ち続けることです。「成せば成る」はずです。不可能と思うようなことでも必ず可能になってきます。大切なのは諦めない事です。これが今の変革期の医療の姿ではないのでしょうか。

つまり医療の質の向上は、今やケアの質の向上に他ならなくなったのです。もっと具体的に言えば、キュアの質の向上の代表格であった医師の技術から医師以外のスタッフの技術にお金の流れが変わってきたのです。この変化が理解できない病院オーナー(ほとんどが医師)がいたとしたら、おそらく、その病院は倒産するかもしれません。医師はセンスが良く、頭脳明晰なのでこの時代の流れを確実に読む事ができるはずです。どんな時代になろうとも、やはり医療におけるリーダーは医師ですから、今後、世の中における医師自身の役割をどのように変化させるか期待したいものです。



予防医学に力を注いで、後遺症を残さない治療を確立して


(医師のやるべきこと、医師に期待されていること)

植物状態(自発呼吸できる機能だけは残っている状態)や脳死状態(自発呼吸できる機能も壊れている状態)になったら、命を延ばさないようにと多くの人は言うでしょう。ところが私は重度の後遺症を残す確率が高い状態でも命を永らえる事を拒否します。命が救われる事に一時は周囲の人々は喜ぶでしょう。ところがその時から始まる苦悩により、その喜びが糠喜びであることに気付かされるのです。

よく「その人らしく」生きていけるように援助することが、後遺症に苦しむ人に対してはとても大切だといわれますが、一度後遺症に苦しむようになったら、また後遺症が完全に治らない限り「その人らしく」生き返る事は困難といえるのではないでしょうか。「その人らしく」生き返ることができた人がいたとすれば、その人は稀な存在といえます。元どおりに体が戻りにくいのに精神面まで元にもどることは困難なのです。

命を救うなとは言いません。医療はもっと真剣に命を助けるとは?どういうことを意味するのか、「その人らしく」生きていくとは?どういうことなのか考え直す必要があります。後遺症を持って社会復帰することがどんなに大変なことか、私も体験しましたが筆舌しがたい苦労があります。遺伝子操作やクローン人間の創造もいいけれど、もっと考え実行すべきことが足元に一杯あるような気がします。私にとっては後遺症を残す事も「治療」とは言いません。

植物状態や脳死状態になるのだったら命だけを救うな!と誰でも声に出して言うでしょうが、私はもう1つ、重度の後遺を残す可能性があるのなら命を救うなということを付け加えたいと考えます。後遺症の程度は命を救ってみないと定かではないと言えないといわれるでしょうが、障害の程度まで把握できることがとても大切だと私は考えます。

介護の専門化が存在するのに介護を学んでいない医師が介護の世界に参入していますが、このようなことをしっかり研究、勉強して欲しいのです。それを言いたいほど、後遺症を背負って生きていくことは筆舌しがたい苦労があります。生きていることがとても辛いと感じてしまうのが後遺症なのです。稀に後遺症が軽度だったり後遺症を残しても積極的な社会参加をしている人がいますが稀に存在しますが、その人の精神力はものすごいものですし、健常者が想像するよりその人はとても苦労しています。

後遺症を残しても元気に生活して欲しいとリハビリ医療を準備していますが、私もリハビリ医療に携わる1人として言わせて戴ければ方向を拡大したほうが良いように思われます。だって患者は後遺症自体を完全に治したいと思っているのですが完全に治らないケースが多いからです。皆で真剣に命を救うとはどういうことか?考える必要があると思います!



戦争を乗り切り高齢期を迎えた人とそうでない人とでは違いがありませんか?


 私はかなりの違いが存在すると思います。人間は経験が物を言う存在です。あの悲惨で、実感として明日は生きているか分からない動乱の世の中を生き抜いた人とそんな経験の無い人では生きていく力はかなり異なるでしょう。

今の世は義務より権利主張が優先してしまうようです。国の進む方向性に逆らえず一緒に歩まざるを得ない時代と、国の進む方向性が気に食わないと、すぐに良いか悪いか分かりませんが、すぐに文句を言う時代の人とでは異なって当然です。後者の増加するこれからは、バリアフリーの環境が当然の考えになるのではないのでしょうか?



自立とは


 自立と一言で表現していますが、いったいどのような状態を指し示すのでしょうか?私は謙虚に感謝を忘れず自分以外の他の存在に依存できるのが自立だと考えます。

依存することと自立することとは相反することと受け止められやすいのですが、依存を否定することと素直に依存を認めることとは異なるのではないのでしょうか。自立できない大人の増加が社会問題になっていますが、子供が親の庇護の元自立していくのと同様、大人も自立していく過程を学ばなければならないのです。年齢によって判断されるものではありません。やはりその人の経験が自らの自立に結びついているのではないかが問題です。



健康の概念


 精神的な健康や社会的な健康を健康の概念に含めたにも拘らず、精神的に不健康な人や社会的に不健康な人がこれほど増えているのに一向にこの概念の拡大が実を結んでいません。すでに日本では一病息災、二病息災の時代に入っています。肉体的な健康の普及はもう終わったのです。

今はどう病気の勢いをコントロールしたり障害された精神をどのようにコントロールしていくかの時代です。どう病気と共存していくかの時代です。これからは肉体的な健康より精神的な健康と社会的な健康の重要性を広げていく必要性がすでに目前に迫っています。心の時代といわれて久しいですが、真剣に心のあり様が問われる時代だといえるように皆の自覚が必要なのです。



共存


実は平和の条件として欠かせないのが共存という心のあり方だと思いますが、視覚障害者の生活に欠かせない点字ブロックが、肢体不自由者には雨が降れば滑りやすく、普段はつまずき転ぶ原因となる事を大っぴらに主張する人がいません。これこそ視覚障害者と肢体不自由者が平和的に共存していくのにとても大切な視点だと私は考えています。

共存しやすい点字ブロックの開発が望まれていると思います。高齢者にとっても、今の点字ブロックは滑りやすかったりつまずき易かったりする筈です。今こそ視覚障害者と肢体不自由者の共存を真剣に考える必要があるのです。



障害者や高齢者が頻繁に目に泊まる世の中に!


わが国では車椅子を利用して社会復帰している人や生活している人をほとんど見受けません。車椅子生活者はどうしているのでしょう?おそらく隔離された、健常者とは別の生活を強いられたり、その他の人は閉じこもった生活を送ったり強いられているのではないかと推測します。

私は数年前の障害者になる前に、カナダに研修に行った経験がありますが、そこで見た光景の意味が自分が障害者になり始めて分かりました。それは四肢麻痺で電動車椅子生活の人がショッピングモールにおいて1人で買い物をしている姿でした。インフラ整備がその人の生活を支えたり、また障害者等のマイノリティな人の受け入れが整っている事に今更ながら気付かされました。日本も障害者や高齢者に対し、受け入れ許容量を社会全体で広げていかなければならないでしょう。



明日の福祉・医療の姿を大いに語ろう!


ごく一部の人が福祉・医療の抱える問題を語っているように、私には見えて仕方がありません。安心して年を重ねて死んでいけるには社会サービスのあり方はとても重要で、その動向に目を向けることは他人事ではありません。

遺伝子操作・クローン人間問題・再生医療・介護虐待等にしても、もっと多くの人々が発言する必要があるのではないのでしょうか?多方面の人に発言させるべきだし、福祉や医療の人間だけに問題解決を強いている現状があります。美談に引き寄せられては困ります。親にとって子供を可愛いように、大袈裟なように見えますが後世に付けを残こしてはなりません。福祉・医療の現場では、予想しない問題が持ち上がることがあります。極端ですが、日頃からいろいろな問題を最小限、患者・家族と話し合っておきたいものです。



理学療法士 西沢 滋和