トップページへ建設用語中辞典
(英仏独和)
世界の文化世界の国名・
 国旗の由来
国名から探す
和訳・日本の文化韓国地図検索ソウル地図検索釜山地図検索作者のページ
県別自治体リンク50音自治体リンク面白いサイトスパム紹介(日記)お問合わせ
このページだけが表示されたときは、こちらをクリックしてください。

ウクライナの歴史

 このページは元、『ウクライナ研究会』という団体が作成したhttp://www31.ocn.ne.jp/~nero/sevens1.htmlの「第一回 試練の大地 〜ウクライナ〜」にあったものです。リンク切れになっているため、Googleのキャッシュから拾って、収録したものです。

「ウクライナ」の形成まで

 ロシアの南部、黒海の北には、広大で肥沃なステップの大地がある。後にウクライナ(「端」「フロンティア」の意。)と呼ばれる大地である。この草原の大地に現在のウクライナ人の先祖であるスラブ系の民族(インド・ヨーロッパ語族)が住み始めたのはいまから2500年から3000年前らしいが、常に東西南北からの侵略に脅かされ、代々、外部からの征服者によって時代を形成していった。古くは古代ギリシア時代のスキタイの侵略、古代ローマ時代末期にはフン族(中国北部の匈奴?)が東から西へ通過し、9世紀ごろには南ロシアのトルコ系ユダヤ人国家ハザール・ハン国がこの地からアラブ方面へ奴隷を輸出していた。

 やがて9世紀末、この草原地帯を流れるドニエプル川の中流を中心に、後のロシア、そしてウクライナのルーツとされる国家「キエフ・ルーシ」が誕生(だが建国したのは、これも外部からきたノルマン人であった)、キリスト教文化が花を開く。しかし13世紀にモンゴルの侵略によって滅ぼされてしまい、モンゴルによってキプチャク・ハン国がつくられ(モンゴル支配のことをロシアなどでは「タタールのくびき」と呼んでいる)14世紀末には中央アジアの英雄・ティムールが来襲した。

 やがてモンゴル支配の末期(15世紀)ごろ、正規の軍隊から離れて、反乱や盗賊行為を行う「コサック(群れを離れた者)」と呼ばれる集団が登場、東欧の封建社会から逃げ出してきた流民も加えて、ウクライナの大地に一大勢力を築き上げた。これが直接的なウクライナ国家の起源である。この時代には廃墟と化していたキエフの都は再建されて、コサックたちはキリスト教東方正教を自分たちの宗教にして、周囲と自らの差別化を図った。これが将来「我々はウクライナ人である」というナショナリズム形成につながっていく。

 しかしコサックたちの自治国家は、当時、東欧の大国であったポーランド・リトアニア王国(同君の連合王国)や、さらにロシア帝国、オスマン帝国の狭間の中でのパワーゲームに翻弄されて徐々に自治権が奪い取られていく。そしてやがて、コサックの自治国家はロシアとポーランドによって東西分割されてしまうことになった。さらにポーランド滅亡に伴い、リヴィウを中心とするガリツィア地方はハプスブルク帝国の支配下に、その他の大部分はロシア帝国の領土となった。

 ロシア帝国支配下の時代でもコサックの記憶は生きつづけ、やがて18世紀末頃から、その影響を受けた「ウクライナ人」による民族運動が(ウクライナ語の復興を焦点として)起きはじめるが、ロシア帝国によって1917年まで弾圧されつづけた。ウクライナ人への弾圧はかえって、ウクライナ人としての民族意識を根強いものとする。

 また一方で、ウクライナ人は、ハザール・ハン国時代以来の同居人であるユダヤ人を迫害すること(「ポグロム」(*))によっても、自らをウクライナ人として意識した。ウクライナの地におけるユダヤ人は文化に多大に貢献していたが、20世紀になって、迫害された多くのユダヤ人がウクライナから脱出していった。

(*)語源は雷の音から来ているといわれる。

独立革命の挫折(1917〜1922)

 やがて第一次世界大戦が始まり、戦争への不満からロシアでは1917年に革命が起こり、ついに皇帝が退位した。この機運に乗じてキエフにおいては中央ラーダ(*)が結成された。中央ラーダは、ロシアの革命後の臨時政府軍を破り、11月に「ウクライナ人民共和国」の独立宣言を発する。

(*)ラーダとは「評議会」の意。ロシア語の「ソヴィエト」にあたる。

 しかし次に中央ラーダは、ボルシェヴィキ(*)と対決しなければならなかった。キエフから東に位置する地方都市ハリコフに終結したウクライナ国内のボルシェヴィキは、ロシアからの強力な援軍と共に、キエフに向かって進撃を開始する。激戦の末、1918年1月には、中央ラーダ政府はキエフから追い出されてしまった。しかし西に逃れた中央ラーダ政府は、第一次大戦でロシアと戦争していたドイツと、いわゆる「パン条約」を締結し、莫大な穀物と引き換えにウクライナを独立国家として承認させ、3月までにドイツの大軍の援護と共にキエフへの帰還に成功した。

(*)レーニンが組織した、共産主義をかかげる戦闘的政治集団。ロシアで10月革命を起こして「ソヴィエト・ロシア」(後のソ連)を創った。ソヴィエト共産党の母体。

 だが今度は、中央ラーダ政府はドイツ軍と対立した。ウクライナの大地主たちは中央ラーダ政府の革命的な土地改革を危険視していて、またドイツ軍もウクライナを確実な自分たちの支配下に置きたいと考えていた。そのため両者は結託してクーデターを起こし、1918年4月に総裁政府を樹立した。中央ラーダ政府は解散させられてしまった。しかし総裁政府による反動的な土地政策や、ドイツ軍による強引な作物の収奪は、ウクライナ全土の貧農(ウクライナ人のほとんどが貧農だった)の反発を買い、各地で農民蜂起が勃発。ウクライナ南部では、無政府主義者のネストル・マフノが登場して農民ゲリラを率い、広大な地域を支配した。そのような状況の中でドイツ軍は甚大な被害を受け、ドイツ本国が不安定な社会情勢になったこともあり、1918年11月から撤退を開始した。

 ドイツ軍がいなくなったら、1918年12月に総裁政府は簡単に崩壊した。だが中央ラーダにも、もはやウクライナの独立を維持する力は無くなっていた。こうしてウクライナは内戦状態になってしまった。1919年2月に再びボルシェヴィキがキエフ占領。ソヴィエト・ウクライナ政権を成立させる。南部ではマフノの農民軍が広大な地域を支配しており、キエフ近郊ではゼリョーヌイ率いる農民反乱が起こった。黒海沿岸のオデッサには、フランスの援助を受けたデニキン将軍による反革命派の「ロシア義勇軍」が上陸。1920年5月にはポーランドのピウスツキ将軍がキエフを一時占領した。

 だがやがて、キエフのボルシェヴィキによる「ソヴィエト・ウクライナ政権」が内戦を勝ち抜いていき、1922年、ウクライナはソヴィエト・ロシアやベラルーシなどと連合したソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)に組み込まれることになった。名目上はウクライナはロシアと対等な共和国であったが、実質的にウクライナは再びロシアの支配下に入ることになった。この内戦で国土は荒廃、飢饉で100万人近くが餓死した。しかしウクライナ人にとっての試練はむしろこれからである。

 一方、ハプスブルク帝国支配下のガリツィア地方も、1918年11月に独立して「西ウクライナ人民共和国」を成立させる。しかしガリツィア地方にはウクライナ人だけでなくポーランド人やユダヤ人も住んでいた。ポーランド人は戦後に復興したポーランド国家への併合を主張し、ウクライナ人との間に熾烈な民族紛争を展開。しかし結局、ポーランド側には本国からピウスツキ将軍率いる援軍がやってきて、ガリツィアはポーランド領となってしまう(1921年のリガ条約で正式に確定)。内戦で混乱しているウクライナからは援軍は来なかった。


地獄と化したウクライナ(戦間期)
 内戦終結後、ウクライナではウクライナ共産党(ウクライナ国内のボルシェヴィキ)の指導下において、「ウクライナ化」政策が行われた。これはウクライナ一般人民とソヴィエト・ウクライナ政府を一体化させようとするもので、具体的にはウクライナ語による教育、公務員へのウクライナ人の採用などである。それまでウクライナ社会の上層階級のほとんど、および都市部はロシア人が多数派であり、ウクライナ人のほとんどは貧しい農民で、政治面では局外者だったのである。

 しかしウクライナ化政策が功を奏しはじめる一方で、そのころソ連の首都モスクワでは、ソ連の中央集権国家化を目指す独裁者、スターリンが登場する。彼はウクライナ化政策を推進してきたウクライナ共産党を、民族主義的偏向を犯したとして強く非難した。そして1930年代のスターリンの「大粛清」の時代には、彼はソビエト連邦の全土において、自分に反対する者(潜在的なものも含めて)を容赦なく虐殺していった。ウクライナ化政策を進めていたウクライナ共産党員も指導者、一般党員も含めて全体の37%が1930年代末までに処刑され、粛清の対象は、富裕農民(クラーク)、知識人、牧師、そしてやがては一般人にまで及んだ。密告が密告を呼び、政治警察である内務人民委員部(NKVD)によって罪のない人々が処刑されたり、強制収容所に送られたりした。この時期、ソ連全土で1000万人以上がスターリンの粛清の犠牲者となった。(このときにウクライナで粛清を指揮していたのは、後のソ連共産党書記長フルシチョフであった)

 また一方で、1929年からウクライナにおいては農業の強制的な集団化(国営化)、富農(クラーク)の撲滅運動が加速していた。これによって穀物の生産量は低下し、また「クラーク」が過酷な迫害を受けたため(明らかに「富農」でない農民も含んでいた)、ウクライナ農民は各地で大きく抵抗した。ストライキ、共産党員へのテロ活動、さらには集団化(国家財産化)された家畜の大量屠殺などである。スターリンは、これをクラークやウクライナ民族主義者による反革命・民族主義運動であると見なして、信じられないような行動に出た。

 1932年から1933年にかけて、スターリンはウクライナ全土に人為的に飢饉をおこすという作戦にでる。ウクライナ国境を封鎖し、収穫された穀物は「国の財産」として不当な量が徴発され、農村には武装した(そして空腹でない)部隊を配置した。結果として餓死者が頻出。中には農村を逃げ出そうとして捕まったり、死体を食べたりする者もでた。ウクライナ共産党員によるモスクワへの嘆願も無視された。これによってウクライナ社会の重要な構成要素である農村が壊滅的な大被害をうけ、最終的におよそ700万人、全体の二割近くのウクライナ人が餓死した。この人為的な飢饉の被害者数は、ヒトラーによるユダヤ人大虐殺をも上回る。虐殺方法としての飢饉はおそらく歴史上これだけである(毛沢東の「大躍進」政策による結果的な大災害を別とすれば)。

 飢饉の事実はモスクワの政府によって否定されつづけ、外部にも知れ渡ることはなかった。もしくは語られる人為的飢饉のひどさはオオゲサだと思われてた。世界に認知されるのは早くて1970年代、国連の公式認識となるのは1998年まで待たなければならない。しかしウクライナ人はこの歴史を忘れることは無く、将来的な独立の必要性を深く人々の心に刻み込むことになった。

ナチス・ドイツの襲来(第二次世界大戦)
 1939年、スターリンはナチス・ドイツのヒトラーとの秘密議定書(リッペンドロップ・モロトフ協定)によってポーランドを分割。1921年のリガ条約以来ポーランド領となっていたガリツィア地方と中心都市リヴィウはウクライナへ(やらせの住民投票によって)併合された。約20年前の西ウクライナ人民共和国以来の夢が、奇しくもスターリンの手によって果たされたのである。それまで、ガリツィア地方に住むポーランド人、ユダヤ人、ウクライナ人は互いに憎しみあっていたが、新しくウクライナ領となった今、民族の区別なくすべてがスターリンの虐殺の対象となった。

 1941年のナチス・ドイツとソ連の開戦は、スターリンの恐怖政治におびえていたウクライナ人にとって、一時的に解放への期待が高まることになった。独ソ戦は第二次世界大戦における主要な戦線の一つで、ウクライナも凄まじい激戦地となり、500万以上の死者を出した(ソ連の内務人民委員部(NKVD)はウクライナから退却する際に再び大量殺戮を行っている)。このとき、ウクライナに攻め込んできたのはドイツだけではない。ファシスト政権のルーマニア、ハンガリーもウクライナの一部を占領した。イタリア、スペインも旅団を派遣していた。そして、ウィーンで結成されていたウクライナ人亡命者の民族主義団体(OUN)もドイツ軍と共にウクライナに入り、リヴィウでウクライナ独立を宣言している。しかしナチスドイツはすぐに独立運動を弾圧し、ウクライナにおいて「帝国コミッサリアート」を設置して、ナチス親衛隊が直接統治を行うこととした。

 ドイツ民族の人種的優越性をイデオロギーとするナチスにとっては、ウクライナ人は「劣等人種」とみなされる。数百万の人々が「東方労働者」としてドイツへ送られて強制労働に従事させられた。またウクライナに住むユダヤ人はすべて絶滅の対象になった。このときもウクライナの人口は400万近く減少した。人だけでなく、穀物や木材などの物的資源も等しく略奪され、ウクライナは荒れ放題となる。このドイツ軍の暴虐にウクライナ人農民は各地で抵抗し、やがて1942年10月、ウクライナ蜂起軍(UPA)が結成されるに至る。おもに西ウクライナにおいて、テロ活動などでドイツ軍と戦った。UPAが活動を活発化させればさせるほど、ドイツ軍もウクライナ人迫害の手を強めた。

 しかし、その一方でドイツ軍は、1943年春にスターリングラードの戦いで決定的な大敗北を喫すると、自らの軍隊に「東方人」を編入させようとして、武装親衛隊(SS)にウクライナ人部隊「ガリツィエン」を創設した。(この時期、武装親衛隊(SS)はウクライナ人だけでなく、多数の外国人を採用している。)ウクライナ人たちも、ドイツ支配下のウクライナの待遇が改善されること(自治・独立)を希望し、約8万人のウクライナ人が応募、そのうち1万3千人が採用された。1917年〜1921年の独立革命の挫折の経験から、ウクライナ人は自分たちに、よく訓練された正規の軍隊が不足しているということを痛感していたのである。彼等はまさに「ウクライナ人」として、スターリンのソ連軍と戦う機会を与えられることになった(その一方でユダヤ人虐殺にも荷担した)。「ガリツィエン」部隊以外にも、多くのウクライナ人が「元ソ連軍捕虜」としてドイツ軍に参加している。しかしそれらを圧倒的に上回る数のウクライナ人が「ソ連兵」としてナチス・ドイツと戦い、死んでいった。

 やがて、ドイツが敗走して再びソ連軍がやってくると、ウクライナ蜂起軍(UPA)は、破滅的な運命をたどる。彼等は今度はソ連軍に対するテロ活動を開始し、それだけでなくガリツィア地方のポーランド人、ユダヤ人の大量虐殺を行った。家は次々に焼き討ちにし、ときには虐殺に反対した同朋のウクライナ人をもいっしょに殺害した。このようなUPAのテロ活動は1950年代まで続く。戦後、ソ連はポーランドやチェコスロヴァキアと共同軍事行動をUPAにたいして起こし、ポーランドでは国内のウクライナ人を強制退去させる「ヴィスワ作戦」が行われた。戦後まもなくの東欧は、新しく引きなおされた国境線にしたがって大量の人々が無理やり移住させられる時期だった。ウクライナでも、ポーランドなどから追い出されたウクライナ人が大量に国内へ流入する一方で、たくさんの国内のポーランド人、ユダヤ人は国外へ強制退去させられ、国内からほとんど姿を消してしまったのだった。


汚染・独立(〜1991)
 ウクライナは第二次世界大戦後(1945年)、独自に国際連合に創立メンバーの一国として参加した。1954年にはクリミア半島を領土に加える(後述)。しかし実際は、ウクライナは相変わらず「ソ連帝国の一部」であり、ロシア化が進められた。1956年のハンガリーや1967年のチェコ(*)で不穏な動きがあったとき、ウクライナで威嚇の為の大軍事演習がとり行われ、ウクライナを経由して東欧の衛星国へ戦車が出撃していった。

(*)「ハンガリー動乱」および「プラハの春」と呼ばれる民主化運動。いずれもソ連軍(またはワルシャワ条約機構軍)によって弾圧された。

 1953年のスターリンの死後に、大粛清の犠牲になった多くのウクライナ人の名誉回復がなされ、また徐々にウクライナ文化の再興が水面下で活発化しはじめる。1960年代には体制に批判的な、または「ウクライナ的な」文学が登場した。フルシチョフの「脱スターリン主義」の時代には、ウクライナ・ソヴィエト政府もこのような動きを少なからず容認した。しかしブレジネフの「停滞の時代」になると、1972年にウクライナ人知識階級が大量に逮捕されるという事件が起こる。1976年には人権擁護団体「ウクライナ・ヘルシンキ・グループ」が結成されるが、それも弾圧された。

 ソ連支配下のウクライナにおいて大部分のウクライナ農民は、ロシア帝国時代以来の「農奴」の地位に閉じ込められ、1970年代まで国家の社会保障を受けることも出来ないでいた。収穫の大部分は相変わらず国家によって搾取され、スターリンの粛清の恐怖がなくなった今、共産党の幹部たちは自らの特権階級(ノーメンクラトゥーラ)としての地位を不動のものとする。極めて非効率的な計画経済、冷戦下における膨大な軍事費・科学技術費は、ウクライナの近代化を進めたとはいえ、人々の生活を一向に改善しなかった。政治の腐敗、経済的矛盾は深刻化していったにもかかわらず、隠蔽されつづけた。だが、やがて起こる1986年4月のチェルノブイリの原子力発電所で爆発事故は、ユーラシア大陸北部の大部分に放射能汚染物を撒き散らしたが、それはウクライナを含めたクレムリン支配下の国々の社会が、放射能だけでなく「現実に存在する社会主義」そのものに深く汚染されていることを気付かせ、そして世界にも強く印象づける結果となった。

 やがてソ連はゴルバチョフの「ペレストロイカ」の時代を迎えた。ウクライナでは「ペレブドーヴァ」と呼ばれる改革・開放をもとめる時代がやってきた。1960年代頃から民族文化運動を続けてきたウクライナ人文学者たちは、ウクライナ語の解放・普及を訴えた。ソヴィエト政府によってその存在を否定され、弾圧されつづけてきたウクライナ・カトリック(ユニエイト)(*)は、水面下で根強く活動を続けて、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の強い励ましを受けた。そしてついに1989年、ウクライナ語の公用化、ユニエイトの公認化が実現した。東欧における民主革命の成功も受けて、ウクライナ民族運動は最高潮に達していく。

(*)ウクライナにおける宗教(キリスト教)は、おもにロシア正教、ウクライナ正教、ウクライナ・カトリック。ソ連時代はロシア正教が宗教界で支配的だった。1988年にウクライナにおけるキリスト教は1000年目を迎えた。

 ウクライナの文化的民族運動の盛り上がりは、やがて必然的に政治的なものへ変化した。1989年9月、作家連盟などを中心に民族主義大衆組織「ペレストロイカのための人民運動」(通称、ルフ)が結成される。1990年1月22日(1918年の中央ラーダによるウクライナ独立宣言の日)にルフの呼びかけで、大勢のウクライナ人は手と手をつないで長い「人間の鎖」をつくりあげた。3月にはウクライナにおいて民主的な最高会議(国会)議員選挙が実現し、ルフを中心とする民主勢力が大きな勢力を占めた。7月、最高会議は「主権宣言」を採択。様々な国家の権利をソ連から取り戻すことを宣言し、非核三原則も採択した。学生や炭鉱労働者によるストライキやデモは、民主勢力をさらに後押しする。ウクライナ共産党は分裂・衰退し、民主勢力へ走るものもでた。

 もはや東欧やバルト三国だけでなく、ウクライナなどほとんど全てのソ連内の共和国において、民主化・独立の要望を掲げた運動が出現していた。ソ連の本体ともいえるロシアですら、民主的な選挙で選ばれた「ロシア大統領」としてボリス・エリツィンが登場、ソ連政府とは距離をおいた。「ソ連大統領」となっていたゴルバチョフはこれらの動きに妥協せざるを得ず、1991年8月、ソ連をもっと自由な共和国の連合体へと変革させる新連邦条約をソ連内の共和国間で締結することを決定した。しかしそれをソ連の事実上の解体であると見なしたソ連共産党の主要な指導者たちはクーデターを起こし、条約締結を阻止した。彼らは明らかな時代の流れを読めなかったらしく、自分たちの行動は人々の大きな支持を得るものだと思っていた。しかし待っていたのは、人々の「無視」であった。

 ウクライナ最高会議議長となっていたクラフチュークも、ほとんどこれを無視した。崩れ行くソ連を完全に見限り、8月24日に最高会議はウクライナの独立を宣言、国名から「人民共和国」を削除した。12月の国民投票によっても、圧倒的に独立が支持され(ウクライナ国内の多くのロシア人も支持した)、クラフチュークがウクライナ初代大統領に選ばれた。1917年の独立革命の挫折以来、幾多の試練を乗り越えて、ついにウクライナの独立は達成されたのである。

 モスクワでも8月クーデターは、かえってエリツィンに付け入るスキを与えてしまった。彼はクーデターに勇敢に立ち向かったとして一躍スターになり、クーデター終結後、被害者であるはずのゴルバチョフに共産党解散のけじめをつけさせた。1991年12月、エリツィンとクラフチューク、それにベラルーシのシュシケヴィチら3人は、ソ連の消滅と独立国家共同体(CIS)結成を宣言する文書に署名した。

試練は続く(独立後のウクライナ)
 悲願であったウクライナの独立の達成は、決してウクライナの歴史の終着駅ではない。新たなるスタート、というよりも、それは一つの歴史的な「区切り」でしかなかった。そもそも「ウクライナ」とはなんなのか。その答えを導き出すことが、ウクライナの歴史の終着駅であるのかもしれない。少なくともウクライナの歴史は「まずウクライナありき」では始まらない。「ウクライナ」が歴史を育んだのではなく、歴史の中から「ウクライナ」が登場したのである。「ウクライナ」がポーランドやロシア帝国、ソビエト連邦に支配されたのではなく、それらに支配された経験のある土地、あるいは人々が、「ウクライナ」あるいは「ウクライナ人」になった。

 そんな自らの由来(アイデンティティー)に関する問題が、いままでウクライナを縛っていたし、独立後も縛ることになるだろう。しかし独立後のしばらくの時代は、ウクライナは旧ソ連時代に由来する様々な問題を清算することで手一杯であった。

 旧ソ連時代の反動で、クラフチューク大統領はロシアとは対立路線をとる。独立国家共同体(CIS)内部におけるロシアのリーダーシップに対して反発し、また、ロシアとは旧ソ連軍の黒海艦隊の分割問題などでも対立した。ウクライナ国内に残る旧ソ連時代の核兵器については、一時ウクライナの野望が国際社会で疑われたが、ウクライナは非核三原則を採用していることもあり、1994年に核兵器放棄を決め、1996年までに解体とロシアへの移送をすべて完了した。

 クリミア半島は1954年にロシア領からウクライナ領になっていた。かつてはそこには「クリム・ハン国」が存在し、モンゴル帝国の子孫であるタタール人が住んでいたが、第二次大戦時にスターリンによって中央アジアへ強制移住させられていた。のちに、タタール人の半島への帰還要求運動が起こり、現在(2000年)までに20万人近くが帰還を果たしている。しかしそれ以上に、この半島にはロシア人が多く住んでいて、全住民の2/3を占めていた。彼らはクリミア半島のロシアへの復帰を求め、ロシアも半島の返還を要求した。しかしウクライナ政府は半島のロシア人の運動を弾圧し、ロシアとの対立の大きな原因の一つになる。だがロシア政府は、そのころ中央アジアのチェチェンの独立運動を弾圧していた手前、ウクライナに対してうるさいことを言えず、腰砕けになってしまった。1996年のウクライナ憲法でクリミアは国内唯一の自治共和国となる。翌1997年のロシアとの友好協力条約によって、両国はクリミア半島のウクライナ所属を確認した。だが現在もクリミア半島内でのロシア復帰運動は続いている。

 それにしてもウクライナは長年にわたって「ロシアの一部」という立場を強制されてきた国である。クラフチューク大統領のロシア対抗政策には限界があった。経済面、特に石油やガスなどエネルギーに関しては、ウクライナはほとんどロシアに依存していた。そのため、ロシアとの対立は深刻な経済危機、エネルギー危機を引き起こす。独立しても生活が改善されるどころか、かえって悪くなったと感じたウクライナ民衆は、1994年の大統領選挙ではクラフチュークを見限り、ロシアとの関係改善を掲げたレオニード・クチマを新大統領に選出した。

 クチマ大統領はウクライナ憲法制定(1996)、ロシアとの対立の解消(1997年の友好協力条約調印による)、NATOとの協力憲章調印(1997)など、一連の成果をあげた。しかし経済政策は新通貨フリヴナの導入(1996)、IMF主導の経済復興政策の受け入れなどによって力を入れていても、いまだに経済的自立へ道は遠い。なにせ旧ソ連時代は共産主義によって抑圧されながらも最低限の保障があったが、独立後はいきなり、ウクライナは1990年代に世界を巻きこんだグローバル資本主義の嵐に巻きこまれたのだ。ウクライナ製品は競争力がないため生産は落ち込み、賃金未払いは恒常化した。資本主義の考え方にいまだに慣れず、労働意欲は地に落ち、犯罪は横行し、人々は昔のソ連時代を懐かしく感じるまでになる。1998年の議会選挙では、復活したウクライナ共産党が第一党になった。

 しかしクチマ大統領は、1999年の大統領選挙でウクライナ共産党のシモネンコ議長を決選投票で破り、かろうじて再選を果たすと、改革路線継続のため独裁的な立場を強めた。大統領選挙そのものの公正さも疑問視する声もあがり、また、野党系ジャーナリストの殺人事件(2000)にも関与が疑われるなど、民衆の大統領への不信感を募らせる状況となった。それでも、彼の政治運営を通じて、旧ソ連時代よりも苦しいとされる経済状況は、2000年ごろにはわずかながらも改善され始めた感もある。

 けれども、クチマ大統領、およびウクライナ人は、もっと根本的な問題――上述のウクライナ人のアイデンティティについての問題――にひどく悩まされることになった。おりしも、西からはEU(ヨーロッパ連合)・NATOが拡大してくる。東のロシアでもふたたび地域協力を進めようという動きが出てきた。ポーランド、ハンガリーなどはNATOに加盟した。ベラルーシ、モルドヴァは親ロシア政策をとっている。旧ソ連・東欧諸国で唯一、態度を決め兼ねているのがウクライナである。欧州かロシアか、それはまさしくウクライナのアイデンティティーについての重要な問題であった。国内東部、およびクリミアに多く住むロシア人は、ロシアとの再統合を叫ぶ。いっぽう、ガリツィア地方などの国内西部のウクライナ人はヨーロッパとの親密化を主張した。対外政策だけではなく民族構成でも、ウクライナ国内は分裂しているのである。言語(ウクライナ語とロシア語)、宗教(ウクライナ正教、ロシア正教、ユニエイト)、歴史・文化(ガリツィア地方と東部ウクライナ)も違っていた。

 独立革命の挫折、スターリンの恐怖政治、ヒトラーの侵略などによっても破壊されることの無かった「ウクライナ」のアイデンティティーが、21世紀はじめごろには現実問題として危機に立たされることになったのだ。けれども、この「ウクライナ人」としての最後の試練は、おそらく厳しいものではないかもしれない。ウクライナ人は、21世紀には世界中の他民族と一緒に、問題に対処していけるであろう。我々はウクライナ人を知っているし、ウクライナ人も世界を知っている。それが20世紀に多大な犠牲を払ったウクライナ人の功績であろう。


参考文献・web集
中井和夫、他編 『新版世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史』 山川出版社 1998
BRAMA - History of Ukraine - (英語)
ノーマン・デイヴィス著、別宮貞徳訳『ヨーロッパ4 現代』共同通信社 1996,2000
『毎日新聞』2001年5月15日

現代ウクライナ社会について。
中井和夫『警官強盗と黄金の修道院 ―ウクライナ社会の現状』1999

ウクライナ史学史への参考として。
光吉淑江『書評論文:ヤロスラフ・フリーツァーク著「ウクライナ史概略−近代ウクライナ民族の形成−」』1999