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トルコ(Turkey) .tr

首都 アンカラ (220 万) (Ankara 旧称 Angora)

 小アジア(英語名は Anatoria:アナトリアと、Asia Minorがあります。)と Balkan 半島南東部の Thrace 半島とから成る国。公式名 トルコ共和国, 人口 68,109,469人(2003)。国土面積 780,580 km2。トルコ人 90%, クルド人, アラブ人, ギリシア人など. 言語: Turkish (公用語), Kurdish, Arabic など. 宗教: ほとんどがイスラム教スンニー派。 通貨: lira。
 小アジアは元祖・アジアとも考えられ、トルコは元来、アジアの国ですが、目下、EU加盟に向けて懸命です。スポーツの世界ではサッカーに見るように、国際サッカー連盟 FIFAには1923年に加盟し、1962年には欧州サッカー連盟 UEFAに加盟してアジアから遠ざかりつつあります。
 今でものようですが、私の高校時代、世界史と東洋史は別々に教えられていました。ゲルマン族の大移動は東洋から来たフンに追われてのことだった、と教わるのですが、そのフンは東洋史では登場せず、それほど熱心でもないので先生に尋ねることもしませんでしたが、その頃は先生も返答に窮したでしょう。東洋史と世界史をつなぐ鍵はトルコにありそうです。
 トルコ大使館の歴史のページによるとトルコ人はフン族の末裔と考えているようです。フン族がなにものか、恐らく、匈奴だろうと思います。フンの名残と言われるハンガリーは中国語で匈牙利と書きますから。このフン族が歴史に初めて登場するトルコ民族だということです。紀元前8世紀のことです。
 次には突厥 Gokturkが6世紀に登場します。その次が今も中国の新疆に住む8世紀にはウイグル族が台頭して突厥はウイグルに吸収されます。その居住していた地域はトルキスタンと呼ばれるようになりました。
 トルコがイスラム教に接触するのは8世紀初頭ということで、10世紀には完全にイスラム教徒になり、これによって政治的な結束が高まり、990年から1212年にかけて今日のトルキスタンあたりにカラハン朝 Karahansが樹立され、文化の集積を見せます。同時期にガズニ朝 Ghaznavi, Ghazniが現在のアフガニスタンに樹立され、インド北部まで版図を広げます。
 ガズニ朝は1186年に倒れ、突厥の流れで、すでに1071年にビザンチン帝国を破って力をつけていたオウズ族 Oguzが取って代わり、勢力を伸ばしてセルジュク族 Seljuksと呼ばれるようになり、現在のトルコの中心であるアナトリア、イラク、アゼルバイジャン、イラン北部などを包含する大セルジュク帝国を築きました。
 セルジュク帝国は均等相続制をとっていたらしく、1308年に崩壊して、侯国とよばれる小国に分裂していました。現在のトルコの中心であるアナトリアはモンゴルに征服され、イルハン国の版図に入ります。サッカーのJリーグにトルコ代表のイル・ハン選手が加わりましたが、ルーツはイルハン国にあるのかも知れません。
 侯国の中のオスマン侯国が他の侯国を征服して14世紀にはイスラム圏最強の国になり、さらに1453年にはビザンチン帝国の首都・コンスタンチノープルを陥して世界最強の国になりました。コンスタンチノープルはイスタンブールと改名し、オスマン帝国の首都になりました。そして16世紀前半の絶頂期にはウィーンの郊外からペルシャ湾、またクリミアから北アフリカのエチオピアまでを版図に収めました。さらに版図を拡大していくのですが、1683年にウィーン攻略に失敗し、縮小し始めます。それでも大帝国には違いありませんでした。
 オスマントルコとオットーマントルコとは同じものです。英語の綴りは Ottomanですが、建国のオスマン一世についてはOsman Iと綴られます。世界的に Ottomanとか Otomanの表記が主流ですが、ドイツとかデンマーク、それに本家のトルコでは Osmanという表記で、日本でオスマンが割と定着しているのはトルコ人の意思を尊重しているのかも知れません。実際のところ、どうして Ottomanという表記が生じたのかは謎です。英語やフランス語では ottomanはオートマン、オトマンで背もたれのない長いすのことで、軽侮の意味を込めてそう呼んでいたのではと疑われます。オットーマンというのは日本式の発音のようです。もともと、アラビア語で言えば Uthmaで、これはオサマ・ビン・ラディンのオサマと同じです。
 そして1914年に始まっ第一次世界大戦でドイツ側について参戦したのが大きな間違いでした。敗戦国になってイギリス、フランス、ギリシャ、イタリアと周辺の連合国に分割されて、現在のイラク、イランなどのペルシャ湾地帯を失い、本拠たるアナトリアさえ、様々な理由で占領されはじめたのです。
 もはや連合国の言いなりになるしかない帝国政府、1919年、ムスタファ・ケマル将軍 Mustafa Kemalが「解放戦争」に立ち上がり、イスタンブールの帝国政府はイギリスの圧力で将軍を解任しますが、彼はアンカラに暫定政府を樹立し、帝国政府は死刑宣告をし、連合国と戦うことになり、フランス、イタリアを撤退させ、その後の連合国の策謀をはねのけ、1923年、ローザンヌ条約により完全独立を獲得しました。そしてトルコ共和国として再出発しました。
 ムスタファ・ケマルは政教分離を押し進め、暦もイスラム歴から国際的なものに改め、休日は金曜日から日曜日に変更、アラビア文字からローマ字の導入、女性の参政権の確立など近代化を押し進めました。
 こうして、もともとは中国と接する中央アジアに発するトルコは今やEUへの加盟を目前にし、欧州の仲間入りすることになります。
 日本との関係を言うと非常に親日国といっていいでしょう。明治時代のはじめに和歌山県沖でトルコの軍艦・エルトゥールル号の遭難という事件があって村人が決死の救援をしたという事実があり、トルコでも小学校の教科書に出ているくらい広く知られていることのようです。そして、時は移ってイラン・イラク戦争の最中、1985年3月17日にサダム・フセインが「今から四十八時間後に、イランの上空を飛ぶすべて の飛行機を撃ち落とす」と宣言し、各国が自国民を救出するなか、日本政府はもたもたしているところをトルコ機が来て救出してくれたのです。日露戦争に日本が運良く勝ったことも、ロシアの脅威を感じるトルコ人の親日気分を増したのでしょう(あとで知りましたが、この時、トルコはロシアの黒海艦隊がバルチック艦隊に合流できないようボスポラス海峡を封鎖したのだそうです)。第二次世界大戦前のドイツ、イタリア、日本に次ぐ枢軸国に加わり、実際に参戦もしています。「エルトゥールル号の遭難」のことは私も知りませんでした。2006/Feb/19に偶然知りました。まあ、知らなくていいことでしょう。与えた恩をいつまでも忘れない、というのは恩を受けた方にしてみれば気持ち悪いことでしょう。すべてギブ・アンド・テイクでは美談は存亡の危機に立つでしょう。「受けた恩は忘れるな。与えた恩は忘れよ。」(新格言?)しかし、多分、日本政府もほんとにモタモタしていたわけではなくて、外務省はちゃんと過去のこうした事実は百も承知でトルコに打診したのだろうと思います。それを国民に知らせないところは慎ましいかな?と思います。
 トルコの親日ぶりについては日露戦争後、トルコでは子供に Togoの名前をつけるのが流行ったということです。また Togo通り、Nogi(乃木)通りというのもあるという話もありますが、これは確認出来ません。

 070421 「エルトゥールル 人名」を検索してこのページに来た人がいました。調べてみたら、Ertugrulとか Ertougrulと綴られ、オスマン帝国の始祖オスマン1世の父の名前なんだそうです。
 トルコはアラブと同族か?というサイトには、この話がトルコで切手になっていて写真があります。トルコ人とアラブ人はまったく違うということです。また、昔、江利智恵美が歌ったウシュクダラはトルコの民謡だそうです。
 国名の由来は特に言うことはないでしょう。英語版の wikipediaではトルコ語の正式名は Trkiyeで、 Trkはトルコ語で「強い」という意味で iyeは 所有者とか関係するとかの意味らしいです。もう一つ、これはあまり信用できないと思いますが、イリアドのトロイから来ているという説があります。それによると、15世紀、オスマントルコのがこの地を占領した時、メーメットII世がトロイの遺跡と思しき所を訪ね、「アラーがこの町の復讐に導かれた」と言った。そして、何人かの学者は Turkの名前は、トロイの将軍でアジアに逃げたツルクスの子孫が復讐に戻ってきたというのがあります。
 英語の国名 Turkeyは 七面鳥のターキーと同じですが、気にならないのか?と思いますが、問題にはしていないようです。いや、やはりターキーと呼ばれるのは好まれないということで、トゥルキエ(TURKIYE)と呼んで欲しいのがほんとのところのようです。七面鳥の方は、もともとアフリカ原産のまったく別種の鶏、ホロホロ鳥らしいですが、それををトルコ経由で Turkey fowl つまりトルコの食鳥としてヨーロッパに輸入されていたのですが、アメリカ大陸で七面鳥を発見したヨーロッパ人が勘違いしたものだということです。ちなみに関連で調べていたらトルコ人に聞いた話として、トルコでは七面鳥のことはヒンディ つまりインド人と呼ぶんだそうです。この人はなぜターキーなのか、この人は知らなかったそうです。ついでに、トルコ人の顔が七面鳥のように得たいが知れないとか、フランス人はダンド(dindeつまりインドの鳥です。)、エジプト人はローマのニワトリ、アラビア半島ではエチオピアのニワトリと呼ぶんだそうです。さらに Wikipediaで調べると、ドイツ語ではトゥルットヒューナ Truthhner、これは鳴き声がトゥルットゥルッなんだそうです。イタリア語ではメレアグリス Meleagris、これは日本では花の名前としてよく知られているようですが、ラテン語でも同じで、元はアフリカのホロホロチョウのことのようです。スペイン語も同じです。メレアグリスは七面鳥の学名になっています。花の名前の方は原種の花があの七面鳥の頭を思わせるものだったのでは?と想像しています。オランダではカルコーエン Kalkoenで、インドのカリカットのニワトリという意味らしいです。デンマーク、ノルウェー、スウェーデン、フィンランドはみな、kalk...で、同じ意味でしょう。ポーランドでは Indykでこれはフランスの場合と同じでしょう。あと分からないのはインド人は何と呼んでいるか?です。
061104 イスタンブールの旧称と由来を探して、このページに来られた方がありましたので探してみましたが、一つだけ参考になるのを見つけました。それによると、IstanbulはもともとIstanbolで、これはギリシャ語の俗語で stimboli 正しくは eis tin polinで、これは "in the city"を意味するというものです。いや、ほかにもありました。これによると、似たものですが "ees-teen Pohleen"というギリシャ語で、"to the City"という意味というのがあります。では、もとのコンスタンチノープルの意味は?と気になります。これはconstantineとpolisの合成語で constantineは人名にも使われますが、英語の constantと同じで安定、かっこよく解釈すると不滅の都市だったのでしょう。
 国旗の新月旗、あるいは三日月旗とも呼ばれる月星マークからイスラム教が国教かな?と思いますが、そんなことはありません。しかし、オスマントルコ時代からの国旗ですから、制定当時はイスラム教の印だったのだろうと思います。政体が替わったため、説明は後付になり、いろいろになっています。救国の伝説からとられた三日月と星は、民族の進歩と国家の独立を象徴し、赤色はオスマン朝の色とされている。というのが一つ、 月と星は団結と進歩、民族の独立を表しているといわれる。というのが一つ、赤は700年にわたってトルコで傑出した色で、月星はイスラムを象徴している。基本的なデザインは1793年に定められ、五陵星は1844年に追加され、以来、変えられていない。というもの、これから後はあまり信用できないと思いますが、イスタンブールがビザンチン帝国のコンスタンチノープルだった時代、守護神は月の女神のダイアナであったのを、コンスタンチン帝が 330年に、聖母マリアに捧げることにし、その象徴である星を重ね、オスマントルコに征服されたが、すでにあった旗を採用した。というもの、それから1448年にコソボの戦いでキリスト教軍をうち破ったとき、血の海に月星が写っていたのを記念するもの、もう一つ、もっとあるようですが、初代のオスマン帝の夢に月と星が彼の胸から現れてコンスタンチノープルの征服を告げたという故事があるということです。
 07/06/02 「イスラム 三日月 星」でこのページがヒットしていました。いくつかの別説が見えました。三日月はもともとコンスタンティノープルの紋章だったのを、オスマントルコが占領して、その紋章を国旗にして、コーランに出てくる「アル・タルクの暁の星」を加えて現在の国旗になったというものです。で、なぜコンスタンティノープルの紋章が三日月だったのか? この町がまだビザンチオンと呼ばれていた古代、B.C.340年に、マケドニアの包囲攻撃を受けた。マケドニアは夜に城壁の下にトンネルを掘り始めたが、三日月が明るかったために発見され、町は救われた。以後、彼らは三日月を自分たちの町の印に、月の女神ダイアナを守護神としたという。というものです。この「アル・タルクの暁の星」というのがほんとにコーランに出てくるのか確認できません。Al Tarqと綴られるようですが、ある三人のサウディアラビアの女性による記事では一種の民謡のようです。検索すると人名としても多く登場します。
 Wikipediaのトルコの国旗にはまた、いろんな説が示されています。

  • 1389年のコソボの戦いで流された夥しい血の海に、三日月と水星が映って見えたとされ、それをスルタン・ムラト1世が国旗とした。
  • オスマン1世の夢の中で彼の胸から出てきた三日月と星が拡大し、コンスタンティノープルの陥落の前兆を知らせた。
  • 1453年コンスタンティノープルの陥落の夜にメフメト2世が三日月と星を夜空に見た。
  • 最も信じられている説としては、トルコ革命の指導者、初代大統領ケマル・アタテュルクがトルコ革命での勝利の夜に戦場を歩いていて、サカルヤの岩山で流された血の海に、三日月と星が映って見えたとされる。
  • またビザンティン帝国時代にさかのぼると言う説もあり、三日月と星は古代ギリシャの都市ビュザンティオン(ビザンチウム、その後のコンスタンチノープル、イスタンブール)のシンボルとして使われており、それがオスマン帝国のシンボルとして採用されたとされる(三日月はギリシャ神話での狩猟の女神アルテミスのシンボルで、星は聖母マリアを表す)
 これだけ多数の説があるということは、すべて後付だろうと思います。オスマン・トルコの紋章とされているものがアラブ諸国にも抵抗無く国旗に取り込まれているということは、もともと、この砂漠の多いこの地域では灼熱の太陽よりも優しい光の月、しかも煌々たる満月よりも三日月に親しみが持たれていたのでしょう。コーランの宇宙創造ではまず月が作られ、次が太陽のようです。可能性が高いのはアルテミスのシンボル、これは Al Tarqと結びつきがありそうです。英語の祭壇 Altarとの関係はどうなんでしょう? 星は聖母マリアというのはいただけません。イスラム教のシンボルですから。
 アル・タルク Al Tarqを深追いしてみました。Wikipediaでは出てきません。これまで、この一連のページを書くにあたって探索した結果から Alはアラビア語の定冠詞と分かっているので Tarqで引いても Wikipediaには出てきません。Googleで探すとかなりの数がヒットして、さらに"Targ"と"Koran"で検索すると確かにコーランと関係があることが分かります。コーランでは、Tariqと記されていて、これは、この星の光が消えるとき、運命の日・世の終わりが来るという重要な星です。夜を切り裂く星という表現もあり金星がそうではないか?という説も記されていますが、イスラムの学者でこれはブラックホールとかパルサーを預言するものだという人がいるらしいです。
 英語の祭壇 Altarを深追いしてみましたが、関連はなさそうです。Websterのオンライン辞書によると、古代には神の前に生け贄を斬り殺す台だったようです。
 トルコの文化に関しては、佐納康治というの大学の先生の旅行記があるので紹介しておきます。コンピュータとか情報の教授のようですが、世界中、旅をされています。
トルコ大使館 (トップページは表示されませんが、歴史のページがあります。)
トルコ・在アメリカ大使館 →オスマン帝国の最大版図
トロイ伝説の真実とフィクション(トルコ大使館の記事)
大使館のページがこうも早くリンク切れになるとは思いませんでした。今となってはキャッシュも存在しないようです。歴史のページはテキストとして保存していますけど。
ヨーロッパの地図 →アジアの地図
トルコ帽について

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