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日本(Japan) .jp

首都 東京 (Tokyo)

 日本の第二ドメインは、イギリスのやり方に似ています。ac.jpが大学関係、co.jpが会社関係といった感じですが、ed.jp(高校以下、教育委員会など)、or.jpの財団等は日本独特のようです。いきなり、会社名.jpというのも時にあります。gr.jpは任意団体とかとにかくグループのようです。ネット関係をne.jpとするのも日本独特のようです。政府機関はgo.jp、地方自治体は、県が pref.県名.jp、市町村はcity,town,villのあとに.県名.jpとなるのが基本です。なぜか、和歌山県はgo.jpを使っていました。別の決まりがあるわけではなくて、市町村で.comとか.orgのところも以前は数多くありました。今は姿を消しているようです。03/Nov/27に訪問者から知らせがあり、「和歌山も一般的なwakayama.lg.jp/に変わりました」と連絡があって確かにそうでしたが、それにしても lgという第二ドメインは変わっています。一応、local governmentの略のように見えます。あるいは今後、ほかの自治体も .lg.jpに変わっていくのでしょうか? 調べてみたら岐阜県とか東京は中野区などがそうです。その後、どんどん増えています(05/03/29)。ちなみにイギリスでは .goは地方自治体もすべてそうです。あと、ad.jpというのもありますが、これはJPNICという日本のドメイン名を仕切っている機関の会員とかで、大きなネットワークを管理しているプロバイダに限られているようです。
 ちなみに世界全体のドメイン名を仕切っているのはIANA: Internet Assigned Numbers Authorityです。
 ごく最近知った(03/12/11)のですが、co.jpというドメインは、会社登記をしてある企業でしか使うことができず、申請の手続きが面倒で、制約も多く安くない供託金も必要だったということですが、こうしたことを仕切っている日本レジストリサービスでは設立前の企業がco.jpドメインを登録・運用できるようにしたと発表したということです。
 なぜ、日本がジャパンということになったのか、それはマルコ・ポーロが『東方見聞録』に Zipangu ジパングと記したからというのは聞きましたが、なぜジパングになったかというと、「日の出の国」を福建語でジペンクオJih-pen-kuoと呼び、唐代にはクオ「国」を省略してジーペンと呼んでいたからだそうです。
 では、そもそも日本という国名の由来は? よく聞かされていたのは、聖徳太子が小野妹子(おののいもこ、男です。,小野小町はその子孫らしいです。小野篁、小野道風もそうです。)に託して隋の楊帝(ようだい)に送ったと言われる手紙、国書といいますけど、その冒頭の「日出ずる国の天子、日没する国の天子に書を致す、恙なきや」から来ているということです。これが日の元ではなく、日の本になったのは、元のほうは元来、"原理"とか、"できている"とかの意味で、適当ではないんだそうです。まあ、日本が太陽そのものではないということなのでしょう。隋の楊帝はこの国書に激怒したと言われますが、多分、天子は一人しか居ないはずのところに天子を名乗ったからだろう、ということです。日出ずる国の部分は、その後、旧唐書に「倭伝」と「日本国」というのがあって唐の時代には「日本」という呼称を使っていますから。地理的関係として理解していたのでしょう。
 旧唐書の関係部分が「文献史学研究室」というところの資料にありましたので、添付します。中程に「日本國者倭国之別種也以其国在日邊故以日本為名或曰倭国自悪其名不雅改為日本」と見えます。私なりに解釈すると「日本国というのは倭国の別称である。日のある辺りにあるので日本という名にした。あるいは、倭国は自分でその名が優雅でないのを嫌って日本に改めたとも言う」ということになります。「倭国之別種也」については別物である、という解釈もあるようです。『旧唐書』で日本国と倭国では場所の記述が違うという理由です。しかし、ここの文脈全体から見ると別称だと思いますが。


http://www2.plala.or.jp/cygnus/R26.htmlより
 また、韓国には意外と日本の古代史にかかわる資料がたくさんあって、三国史記(新羅本紀)の中に「670年 十二月 倭国が国号を日本と改めた。自ら言うところでは、日の出る所に近いから、これをもって名としたとの事である。」とあるようです。
 聖徳太子という人は実在したのかちょっと謎の部分があるようです。女性として初めての天皇である推古天皇の摂政として国書を出したわけで、天子を名乗るのは代筆みたいなものでしょうが、実は即位して天皇になっていたのではないか?という説もあるようです。それが聖徳太子の両親の用明天皇と穴穂部間人皇女は異母兄妹の関係で、兄姉婚を嫌って「日本書紀」では抹消されたというものです。
 聖徳太子は思いつきで「日出ずる国」、というのを考えたのでしょうか? その背景があったのでは? 考えられるのは「魏志倭人伝」に出てくる卑弥呼(ひみこ)、これは実は「日巫女」、これは後の当て字ですが、ヒミコに中国流に音を当てて、多少は卑しめる意味があって卑弥呼としたのでは? つまり太陽崇拝は昔からあって聖徳太子が卑弥呼を知っていたかどうかは分かりませんが、わりと自然に「日出ずる国」という発想が出てきたのではないでしょうか?
 日本は「ニホン」なのか「ニッポン」なのか? この議論は昔からあったようです。公式には何も定められていないようです。昭 9年(1934)に文部省臨時国語調査会というのが「ニッポン」とすることを決議したといいますが、政府としては決定していないようです。同じ頃、NHKの発足当時、「正式な国号として使う場合は、『ニッポン』。そのほかの場合には『ニホン』と言ってもよい」という方針を決定したということです。実は文部省臨時国語調査会というのが NHKの決定の 1週間後ということで、多分、検討に携わった人たちも同じような人だったのでしょう。最近の NHKの調査では「ニホン」が61%、「ニッポン」が37%という結果で、また、年代別では、若い人ほど「ニホン」が増える傾向があるそうです。私自身としては「ニホン」の方が、やわらかな感じで好きですが、スポーツの応援では「ニッポン、チャチャチャ」の方が迫力があるようです。「ニホン」では調子が取りにくそうです。ネットで調べたら、日本の呼称は「にっぽん」とすることを昭和45年(1970)に閣議決定したと言う記事がそこ、ここにありました。これがどの程度の拘束力を持つのか知りませんが。まあ、日本人はジャパンと言われようがジャポンと言われようが、ハポンでも気にしない国民ですからガタガタ言うことはないでしょう。
 日本を表す言葉で「やまと」があります。いったいこれは何なんでしょう。「大和」、「倭」、「日本」、どれも「やまと」と読めることになっています。しかし、どうみても漢字の読みとは思えません。これはまさに「やまとことば」でしょう。魏志倭人伝に邪馬台国というのが出てくるわけですが、これは日本語に漢字を当てたものでしょうから、その頃から少なくとも「やまと」という地名があったのでしょう。台という字は「ト」とも読めるらしいです。日本には「やまと」と読む地名はたくさんあって、そのことが邪馬台国の所在地を謎にしていまます。日本語で「やまと」は「山」に関係した地形を表す言葉でしょう。「大和」は「和をもって貴しとなす」・聖徳太子の十七条の憲法第一条「以和為貴」、和を貴ぶ日本人は「やまと」朝廷が成長する過程でこの字をあてたのではないでしょうか? 「和」に大きいことはいいことだ!と大をつけて「大和」としたのでは?「倭」は日本人を指した言葉で、おとなしいとか、せむしの小さい奴とかいう蔑称だったという説が強いようです。その倭人の方は、そんなことは知らずに、そうか俺たちは「倭」なのか、と思ったようです。「倭」も「やまと」と読むことにしたのですから。大和朝廷が全国制覇して「日本」も「やまと」も同じということになったのでしょう。
 もう一つ、作者の勝手解釈を。「倭」が蔑称と知って、同様な発音の「和」をあて、そこでまた、大をくっつけたというのはどうなんでしょう? さらにネットで調べていたら養老4年(720)の国史第一書に「国名は倭を廃して大和(やまと)とする」とあるそうです。作者の想像はかなり当たっているのではないでしょうか? この国史ですが年代から言うと、ここでいう国史は日本書紀のようです。ほんとに書かれているか確認したわけではありません。とにかく、かつて日本人自ら「倭」と名乗っていたのは事実です。同じサイトに『「ニホン」と「ニッポン」についても平安時代に ニホンとなり、ついで室町 時代にニッポンと呼ばれるようになった、と一般に言われている。』とあります。続けて『安土桃山時代の『ローマ字・平家物語』(1591)には、NIFONとNIPPONが混用され、また江戸初期の「日葡辞典」(1603)にも両方集録されているそうでかなり昔からニホンとニッポンが併用されてきたことがわかる。 』とありました。そんな時代にそんなものがすでにあったとは初めて知りました。当時はローマ字とは呼ばなかったでしょうが。「NIFON」という表記を見ると、昔の日本語のは唇を合わせてファ、フィ、フ、フェ、フォと発音していたというのはほんとらしく思えます。
 仏教のお経にも倭国という記述があるのだそうです。「一切経」の中に、「倭国、発音はウワという。東海の海のなかにある小さな国である。身体に朱色の丹を塗っている」そうです。「魏志倭人伝」が書かれたのは、西暦239年だということで、その400年以上も前から、インドでは日本のことを知っていたことになります。
 「やまと」の他にも日本を表す言葉は豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)、葦原中国(あしはらなかつくに)、大八洲(おおやしま)とあります。昔は芦がいっぱい生えていたのでしょう。瑞穂は水稲ですね。大八洲はイザナギノミコト(伊邪那岐命、伊奘諾尊)とイザナミノミコト(伊邪那岐命、伊奘冉尊)が次々に島を産んで日本ができるわけですが、まず淡路島ができ、ついで四国、隠岐、九州、 壱岐、対馬、佐渡、本州の順番で生まれて合わせて大八洲だということです。
 このページに検索エンジンから来た人がいて逆にたどっていたら恐ろしく学のある人がいて「倭と和」について古い中国の文献を並べて論じたサイトがありました。ずいぶんと文献はあるものです。朝鮮半島にも「倭」が存在したらしいです。
 さて、国旗ですが、日の丸の旗、日章旗です。日章は記章(徽章)、紋章、勲章、褒章。印章などから考えて「お日様のシルシ」という意味でしょう。一章、二章なども区切りのシルシかな?と思いますが、文章となると、シルシとは考えにくいようです。多分、後になって章で区切られた文を文章ということになったのではないでしょうか。一つ一つの文は文であって文章ではないのかな?と思います。どうでもいいことですけど。
 この日章旗は正式には明治3年(1870)に太政官布告第五十七号によって国旗として制定されました。その前はどうだったのか? 歴史を逆にたどると、1863年に薩摩藩が攘夷主義を唱えてイギリスと薩英戦争をおこした際、新たに考案した日本の旗を用いたそうです。その以前から天皇が即位するときは日章幡旗という縦長の幟(のぼり)みたいなのが使われていました。この日章幡旗の起源については「長言客人: 我が君が代日の」のサイトに詳しく述べられています。薩摩藩はその前から島津斉彬が、1852年、幕府に蒸気船建造申請したときに日本船の総印として白い帆に朱の日の丸を使用しています。さら に「日の丸」を日本全体の船印にすることを幕府に進言したということで、幕府も開国時の1854年(安政元年)全国に布達したということです。

三種の神器より

 さらに遡ると、御朱印船も朱色の丸が使われていました。その前の戦国時代にも日の丸の旗指物(背中に差せるようになっています)が好んで使われたようで、川中島の決戦でも両軍が使っていたということです。さらにその前、後醍醐天皇が笠置へ行幸の際(1331)に官軍に賜ったものも日の丸の旗らしいです。さらにその前、源平の時代には日の丸の扇が流行していたそうで、その前をずっとたどると、三種の神器のうちの宝鏡にたどりつくのだそうです。このデザインのどこが?と思いますが、太陽神である天照大神が、ニニギノミコトに、この鏡を私と思いなさい、と渡したということで、全体が太陽の象徴らしいです。
 太陽のシンボルの入った国旗はアルゼンチン、ウルグァイ、パラウなど、かなりありますが、だいたいは黄色か白で日本のように真っ赤なのは珍しいようです。日本人が太陽を美しいと思うのは日の出とか夕日の赤々とした太陽なのでしょう。バングラデシュは大きな赤丸ですが、血なまぐさい意味もあるようです。韓国の国旗の○は太陽より大きくて宇宙を表しているようです。

 大和の国名について面白いサイトがあったので紹介しておきます。大歳・饒速日のありし日を追う(リンク切れになり、同じ執筆者とみられる別サイトにリンクを変更しました。)というサイトです。真偽のほどは判断できかねますが、多数の引用文献、参考資料が示されていて、労作と思われます。