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エティオピア (Ethiopia) .et

首都 アディスアベバ (113 万) (Addis Ababa)

 エジプトの南, アフリカ北東部の紅海に面した東アフリカの国。公式名 エチオピア民主共和国連邦 The Federal Democratic Republic of Ethiopia。人口 67,673,031人。国土面積 1,127,127 km2。オロモ族 40%, アムハラ族, ティグレ族など; 政治・文化的にセム系のアムハラ族・ティグレ族が優勢. 公用語: Amharic. 宗教: エティオピア正教, イスラム教. 通貨: birr。エジプト時代にさかのぼる古い歴史を持った国です。ソマリア国境やオガデン地区はソマリアとの間で領土争いが続いていますが、年間平均気温が34℃と世界記録のようです。
 エチオピアは人類発祥の地とも考えられるくらい古くから人が住んでいたところです。BC3000年頃にはエジプトの商人が来たという記録があるそうで、エジプトの第25王朝から以降、エジプト王もエチオピアから出たりと、ほとんど一つの国だったようです。
 4世紀にキリスト教が入ってきて次第に力を増し、王自身も改宗して国教としたようです。そして6世紀、アクスム王 Axumの時代にはアラビア半島のイェーメン付近でユダヤ教に迫害されたキリスト教徒を救うために遠征し50年ほど支配していたこともあるということで、この頃が一番、繁栄した時代のようです。
 その後はユダヤ人の王女 Judithが王族をほとんど殺してしまうということがありましたが、とにかく、ソロモン王とシバの女王の末裔と称する王朝が主なのは北、中央、南と三つのようですが、いくつも乱立したりしていたようですが、歴史からは無視される存在になっていました。
 しかし、伝説みたいなのは伝わっていたのか? 12世紀から以降ヨーロッパでは、はるか東方にプレスター・ジョン Prester John王国という、大変に豊かな国があるという伝説が出来ていて、その王からローマ法王への手紙まであったりして、ヨーロッパ人はその王国の発見につとめるのですが、アジア方面では見つからずにいました。
 ところがポルトガル人が1490年にエチオピアを発見し、これこそがプレスター・ジョン王国だと信じました。そしてプレスター・ジョン王国の地図まで作られました。1528年から1543年にかけて、ソマリアのムスリムが攻めてきて滅亡の危機にさらされますが、(この頃のエチオピア王はいかにもソロモンの家系らしくダビデ2世 Davidだったようです。)ポルトガルによって救われます。
 これでポルトガルとの友好関係が確立したかというと、さにあらず、ポルトガルはローマ・カソリックへの改宗を要求し、布教活動もするのですが、評判が悪く、1633年ついにポルトガル人は追放されます。ポルトガル人はソマリアの方に拠点を作り、エチオピアは19世紀半ばまで今度は鎖国状態になります。その間にもイギリスが1805年にやってきてエチオピアと組んで紅海に港を得ます。そしてヨーロッパ人が流れ込み始めます。
 エチオピアは相変わらず、複数の王朝があって力のある王が皇帝として君臨するというシステムでしたが、皇帝、テオドールII世が統一を果たしてから鎖国を脱しはじめます。彼は体制の近代化につとめますが、ビクトリア女王に手紙を出したのに返事がこないのに怒って、イギリス人を投獄します。たちまちボンベイから兵が派遣され、皇帝はピストル自殺します。その息子は一応、イギリスに連れ帰られ、一応は王子として教育を受けるのですが、17才で世を去ります。
 次にイタリアが登場します。1870年、イタリアの会社が紅海の南端に近いアッサブ Assab(今はエリトリアです。)の港を地元のサルタンから買い取り、さらに買い増したところを1882年に政府が買い上げて、メネリク2世 Menelikと接触を図ります。1888年に2万を超える兵
を送って戦いになりますが、決着はつかず、エリトリアだけを植民地として確保します。
 実はメネリクはテオドール皇帝が倒した南の王朝の流れですが、テオドール後の皇帝ヨハネス Johannesはなかなかのもので、エジプト領だったスーダンも支配したりしていましたが、イスラムの一派、ダルウィーシュ dervishと戦って勝つのですが流れ弾に当たってその夜の内に世を去り、そこでメネリクが皇帝として立ったわけです。
 メネリク亡き後、その娘 Zauditutが皇帝を継ぎ、1930年に彼女も亡くなって登場したのがハイレ・セラシェ皇帝 Haile Selassieです。ですが、1935年からイタリアの侵略が始まり、アジスアベバも占領され、皇帝はイギリスに亡命します。そこで国際連盟がはじめて機能し、主としてイギリスですが義勇軍が送られて5年でエチオピアは独立を回復します。このとき、日本軍も参戦して、まあかなりの活躍をしたようですが、日本は軍需物資でかなり儲けたようです。中でも石ころ入りの缶詰は、日本製品=粗悪品のイメージを作ってしまいました。
 ハイレ・セラシェ皇帝は復帰し、マラソンのアベベ選手も皇帝の祝福を受けたりするのですが、1974年、軍によって退位させられ、エチオピアの王朝は終わりを告げました。そこで登場するのは共産主義に近いメンギスツ政権です。そして1987年にはソ連スタイルの憲法が作られます。しかし、民族の対立から、1991年に国を追われ、ジンバブエに亡命しました。そして出来たのが今のエチオピアです。
 
ソマリアの関連で調べていたら、エチオピアは古代エジプトの重要なメンバーだったことが分かってきました。ソマリアに入植したのは南エチオピアのクシュ人 Cusheteだったということで、エジプトの王朝には少なくとも六人のクシュ人が居て、ヘロドトスの記録によれば18人もいたということが分かりました。
 ところでギリシャ神話にエチオピアが登場します。ケフェウスと美女の王妃 カシオペイアの娘: アンドロメダが人身御供にされるところをペルセウスが救う話です。このエチオピアは今のエチオピアなのでしょうか? ネットで調べると確かに美女が多いらしいですが、どちらかというと色浅黒いアラブ系のようです。絵画に出てくるアンドロメダとはちょっとイメージが違います。現代のエチオピアの英語綴りは Ethiopia、ギリシャ神話のエチオピアは Aethiopiaになっています。それはそれで置いといて、この神話を追いかけると、カシオペイアがその美しさを誇ってポセイドンの娘たちであるネレイドよりも美しいと人前で言い、ネレイドが怒ってポセイドンに言いつけ、ポセイドンは怪物を送って海を荒れさせたりして人々を殺し、大変なことになります。そこでアモンという神さまにお告げを受け、アンドロメダが人身御供に出すことになるのですが、このアモンはもともとリビアの神のようで、それが後にエジプトに伝わってきたようです。ギリシャ人の世界地理に関する知識はあやふやなもので、エチオピアはエジプトを除く異国でどちらかというと東の方と考えていたということで、アンドロメダが岩に縛られたのはイスラエル付近だろうということです。ほかにもイスラエル説がありました。
 エチオピアの国名は、古代ギリシャ人はサハラ砂漠以南を漠然とエチオピア(アイトスオポス)と呼んでいたんだそうですが、それは、ギリシャ語の aitos 「日に焼けた」と ops 「顔」に地名接尾語の-iaだということです。エチオピアはまた、旧名としてアビシニア Abyssiniaというのがあり、猫のアビシニアンもここです。この名前はアラビア人が紀元前、12世紀くらいに、この地に入ってきて、その部族名が "Habasha" とかいう名前で、それが、この地を "Habesh" と名付けたんだそうです。それが訛り、訛って Abyssiniaになったということです。今でもアラブ世界ではどこでもハベシュ:Habeshと呼んでいるらしいです。
 首都のアディスアベバの綴りは Addis Ababaでどうしてアベバなのか不思議ですが Addis Abebaと綴ることもあるようです。わりと近世になって出来た都市で1887年にメネリク11世が建設したものです。標高 2400 mで世界で三番目に高いところにある首都です。意味としては「新しい花」だということです。
 国旗の中の緑・黄・赤の3色は信仰・希望・愛を、また、緑は、豊穣、黄色は資源、赤は情熱、青が平和だそうです。この三色は、「アフリカの色」で、アフリカ各国の基調はこの色になっています。さて、国旗の中にイスラエルと同じような形が! でも、イスラエルのは六芒星で、ダビデの星、こちらは五芒星で、ソロモンの星です。ネットで調べてみると神的とか魔の力と関係があるようですが、五と六の違いは、あまりはっきりしないようです。ダビデの星の別名がソロモンの星というのも一つならずあります。ユダヤ教とは関係ないようですが、とにかく似ているのには理由があって、大昔の話ではありますが、実はエチオピアとイスラエルとの間には淺からぬ縁があるのです。
 シバの女王がいたのは、今のイェーメン、中東地域ということになりますが、実は紅海の一番、幅が狭くなったところの対岸、目と鼻の先にエティオピアがあって、シバの女王の領地だったのです。だからどうだ、というのか? まあ、話は最後まで読んでください。その頃、今のイスラエルの地は賢王・ソロモン王が治めていて、ソロモンの栄華を謳歌していました。彼女はこれを聞きつけて、エルサレムを訪れ、ソロモン王と親交を深めたというわけです。ソロモン王は大変な女好きでも知られています。でもって、彼女は帰り道に寄ったエチオピアで、男の子を産み落とします。この子が、エチオピア建国の祖、メネリク 1世だというのです。エチオピアの王家はソロモンとシバの女王の血を引いているわけです。エチオピア王朝はおそらく、紀元前 9世紀に始まる現代に現存した地球最古の由緒ある王朝でしょう。作られた伝説の匂いもありますが、きびしく言うと日本の天皇家だって怪しくなるでしよう。 というわけで、ソロモン王の考案といわれる「ソロモンの星」が国旗に登場するわけです。ソロモン王とシバの女王の会見は、旧約聖書にもコーランにも出ているそうです。

駐日エチオピア大使館(外務省のページで住所がわかるだけです。)
国立民族博物館・研究公演・エチオピアの民族舞踊
リゾート地と遺跡の紹介サイト →諸王国の興亡;エティオピア
アフリカの地図

↓エチオピアの地図