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アフガニスタン(1690 万)(Afganistan) .af

首都 カーブル (32 万) (Kabul)

 国際電話番号 +93

 国土面積 647,500 km2。人口 29,928,987人(2005)、パシュトゥーン人 38%, タジク人 25%, ハザラ人 19%, ウズベク人他. 言語: Pashuto, Persian (以上公用語、現地では Persianつまりペルシャ語をダリと呼ぶようです。), Uzbec. 宗教: イスラム教 《国教; 大部分スンニー派》. 通貨: afghani. 国土の大部分を Hindu Kush 山脈およびその支脈が占めています。
 この国の位置は古代世界の交差点とも呼ばれる特殊な位置で西へ東へと移動する民族が通り過ぎ、民族的にも言語的にもモザイク状になっていきました。Wikipediaによると、最も足跡を残したのはペルシャ人で、それは言語として残っています。公用言語はペルシャ語とパシュト語ですが、パシュトはペルシャ語とアラブ語との入り交じったものですが、この地域の歴史を反映してギリシャ由来、インド由来の言葉も混じっています。13世紀にはジンギスカンのモンゴルもこの地域を席巻するのですが、それは自然の猛威に近いもので文化的にはほとんど影響は残さなかったようです。
 パシュト語はパキスタンでも使われ、こちらは東パシュト語、アフガニスタンは西パシュト語ということになるようですが、相互理解は可能なようです。このほかにも南パシュト語、カンダハール・パシュト語とあり、英語の綴りは Pashuto, Pashto, Pushto, Pasto, Pukhtoなどがありますが、方言によって呼び方が違ってくるようです。ペルシャ語の方はダリ方言 Dariと呼ばれるもののようです。高等教育はこのダリ語の方で行われています。
 アーリア人がどこから降って沸いてきたか知りませんが、紀元前2000年頃に入ってきて、その最初がペルシャ人のようです。そのほかにもメディア人 Median、ギリシャ人、マウリ人 Mauryan、バクトリア人 Bactrianなどが出入りしたようですが、このあたりはペルシャ帝国の一部になります。また、インドのガンダーラの仏教美術を遺したクシャーナ朝 Kushana(中国の資料で月氏とか大月氏とか呼ばれる部族の中の貴霜という支族です。)が、このあたりも支配下に入れて一時代を画したようです。それからギリシャというかマケドニアのアレキサンダー大王が前 4世紀にやってきて支配下に入れます。さらに次々とスキタイ人、ホワイト・フン(いわゆるフンとは区別されるようです。エフタル族 Hephthaliteの別名で 5世紀-6世紀にかけてトルキスタンからインド北西部あたりにいた民族のようです。中国の史料ではJIS第二水準にもないという文字で登場するようです。研究所CD辞典より)、突厥 Gokturkがその後にやってきます。いろいろ出入りしますが今はイランのペルシャのササーン朝 Sassanianの支配するところになりますが、東の方はシャヒ王国 Shahiが支配が支配します。このシャヒは最初はインド系の王朝ですが、後に870年頃、トルコ系に入れ替わります。
 何しろ、いろいろな勢力が出入りし、あちこちで同時進行していたようで、時代が前後しますが、642年、アラブ人が全域に侵攻しイスラム教をもたらします。この頃の中国は唐 Tang Chinaの時代の初期で、このあたりまで勢力を張っていましたが、そこにも代官を置いたりしたようです。そして、このペルシャのコラサニ Khorasani (ホラーサーン)とアラブ人の複合体は 998年にトルコ系のガズニ朝に滅ばされるまで続きます。ガズニ朝はガズナビ帝国を築きインドにもしばしば侵攻します。そのガズナビ帝国は1146年にペルシャ系のグリズ (GhuridsあるいはGhor グール朝、あるいはゴール朝と呼ばれるもののようです)に敗れます。ガズニ朝は Nasher家として、20世紀まで存続しますが、かつての力を取り戻すことはありませんでした。
 このナシェル家ですが、アフガニスタンの名家として、また富豪としての存在感はあったようです。

 その後、トルコ系のセルジュクなどいろんな勢力が支配を試みますが、1205年、トルコ系のホラズム・シャーが支配権を得ますが、1219年にはジンギス・カンにより破壊しつくされます。ジンギス・ハンが1227年に死ぬと跡目を巡っての争いが14世紀まで続きます。その中からチムール(Timur Lenk)がアフガニスタン全域を含む広大な帝国を築きました。そのチムールの末裔のバブール Baburが16世紀はじめ、カブールをアフガン侯国の首都としました。
 その後、18世紀にかけてアフガニスタンは三つに分かれました。北はウズベク、西はペルシャ、東はムガール帝国です。アフガン人・正確にはギルザイ・パシュトゥン人は Kahn Nasher(ガズニ朝の末裔のようです)に率いられて18世紀はじめ、ペルシャに対して反乱を起こし、ペルシャの支配地を占領します。しかし、デュラニ・パシュトゥン人に敗れて支配者は入れ替わります。ギルザイGhilzaiとかデュラニ Durraniとかは部族で、ギルザイは遊牧で西パシュト語を話し、デュラニは定住して東パシュト語を話すようです。
 いろいろな帝国の盛衰を見てきたこの地域は長い間、一つの国を形成することはなく、統一国になったのは1747年、Ahmad Shar Durraniが王朝を樹立したときのことです。この王朝は1973年まで続きました。最盛期には東はインドのデリーまで、南は今のように内陸国ではなくアラビア海にまで達していました。
 19世紀に入るとロシアとイギリスの両帝国の間で前門の狼、後門の虎の状態になります。そして今のような国境線が確定されることになりました。しかし、この間に二度までイギリス軍を敗退させて独立を維持します。外国の支配に対してはなかなかに手強いところを見せました。そして第一次世界大戦は中立でしたが、というより、渉外についてはイギリスの保護領みたいな存在だったようですが、1919年にはイギリスの影響力を排除しようと三度目の戦いを仕掛け、ラワルピンジ条約で完全独立を果たしました。この条約を調印した8月19日がアフガニスタンの建国記念日になっています。
 それまでは、対外には目を向けなかったアフガニスタンですが、外国とも外交関係を結ぶようになり、アマヌラ王 Amanullahはヨーロッパなどを見て近代化の必要性を痛感し、女性のベールを廃止するとか、男女共学の学校を始めるとかの改革を行うのですが、復古派の反発を招き、反乱で首都が陥落して退位を余儀なくされます。それでも王の甥のモハメッド・ナディル・カン Mohammed Nadir Khanが反乱軍を破って主権は回復して、今度は改革を逆に進めたりしますが暗殺されたりしますが、その子のモハメッド・ザヒル・シャーMohammad Zahir Shahが19才で王位につき1973年まで王位を保ちますが、 政策は首相たる伯父から叔父によって逆戻りしたり前進したりして、その間に極右勢力と極左勢力が育ってきます。極左勢力は当然、ソ連と関係深くなります。
 体制は揺れに揺れて、1971-1972年の大干ばつを期に王政を廃し、改革が試みられますが失敗に帰し、1978年、ソ連に支援された左翼の政権が立ちます。そしてまたも婦人参政権を認めるとか近代化を進めようとし、男は髭を禁止され女性はブルガ(burga 例の黒服とベールです。)を禁止されます。そしてソ連の援助でインフラストラクチャと鉱業を中心とする産業開発を進め、軍もソ連が訓練します。これには反動がきます。旧勢力の暴力、サボタージュが続き、これに対して重装備の軍隊が多くのムジャヒディン、つまり聖戦士を処刑します。
 いろいろあって軍隊は1979年に崩壊し、ソ連軍が介入してカブールを占拠、1989年に撤退するまで占領して抵抗運動を潰そうとしますがアメリカのCIAとサウディアラビア、パキスタンがレジスタンスを支援します。オサマ・ビン・ラディンという人物が育ったのはこの環境の中です。彼はアメリカの援助も得て世界中から義勇軍を形成します。それがさらに世界規模でのイスラム原理主義へと向かうアル・カイダを形成します。
 ソ連は撤退しましたが傀儡としてのナジブラ政権 Najibullahの援助は続けます。一方でアメリカのCIAとサウジアラビアのムジャヒディンに対する援助も続きます。そして1992年、ソ連が崩壊するとアブドル・ラシド・ドスタムが蜂起してナジブラ政権は倒れ、イスラム国家の樹立を宣言します。ムジャヒディンが首都に入ると、この政権にパシュトゥン人が含まれていないこともあってソ連の占領下で息を潜めていた割拠する軍閥が互いに争いはじめます。
 その中でタリバン Talibanが北部を残して国土の90%を支配下に納めます。北部の反対勢力は北部同盟を形成して国連の承認国として援助を受ける形になります。2001年9月11日のテロを契機にアメリカはアフガニスタンに侵攻し、タリバン政権を倒します。国連の肝いりで各派閥の代表がボンで会合してカルザイ Karzaiが率いる30人による臨時政権が形成されます
。ここでなぜか元国王のザヒル・シャー Zahir shahが登場して、古来伝統のロヤ・ジルガ Loya Jirga(意味は loyaが 大 、Jirgaが 会議のようです。票決方式でなくあくまで話し合いで決する会議のようです。)を招集してカルザイを大統領として二年間の統治権を与えます。そして2004年10月、初めての直接選挙による大統領が誕生しました。
 その後の情勢ですが、イラクの陰に隠れてマスメディアもほとんど伝えませんが、イギリスがイラク撤退を急ぐ背景にはアフガニスタンの治安悪化があるようです。まあ、過去に曲がりなりにも民主主義のカケラは味わった国ですから、もう一度、イスラム原理主義には戻らないでしょう。今も各地に割拠して国家みたいな存在の軍閥がどうなるのか、これが大問題でしょう。
 国名の由来ですが、一番、それらしいのが、アフガンが「山の民」という意味で、それに、この地域に共通するペルシャ語の地名接尾語-stanを付けた、というもので、そうした説明のサイトが多数、みつかります。ただし、アフガンが何語であるのか、について触れてあるものはありません。確かにアフガニスタンは山国なので納得できます。アフガンが何語か触れているサイトがありましたが、ペルシャ語で、パシュトゥーン人のことを指すとあります。 あまり信憑性がない話としてアジア国際通信 No.238というのに紹介されていた話では、古代、ユダヤの王族にアフガナという人が居て、ユダヤ人が国を追われる頃に今のアフガニスタンに逃れた、その子孫であるとするものがあります。まったくあり得ない話ではないでしようが、無理があるようです。ただ、パシュトゥーン人の中に、それを信じてイスラエルに移住した人がいるというのも事実らしいです。いくつかの慣習が似ているということです。また、英語の資料ですが、Afghanというのは、Afr-ghan、つまり、ユダヤ人の Abrahamからきたものである、など、ユダヤとの関係について記してあります。もう少し調べてみると、確かに金融とか商業に長けたユダヤ人は数千人単位で居るようですが、実はそのほかに20近くの言語、宗教の違う民族が住んでいるということです。
 国旗の真ん中はモスクのようです。イスラム教国では三日月と星が一般的なのですが。何となく三日月の形にはこだわってはいるようです。タリバーンが支配していた時代はただの白旗だったそうです。過去、百年の間に国旗は12回変わっているということです。

 この国に少数のユダヤ人が居て、ハザラ人と呼ばれる人々が居るということは歴史からあるとき消えたカザール Khazarあるいはハザール帝国との関係を思わせます。早速、KhazarとHazaraの両方で検索すると46件がヒットし、地域によってKhazarshah, Hazri, Hazro, Hazriyan, Hazaraなどと呼ばれていたようです。ハザラ人自身はジンギスカンのモンゴルの末裔だと信じているようで、1244年、バーミヤンの谷間を進んでいたジンギスカンは、甥の命をアフガン人の放った矢により失った、このためこの地で大虐殺をしたという記録があり、アフガニスタンの構成民族間で、タジク人はパシュトゥン人を憎み、ウズベク人はタジク人を憎み、パシュトゥン人はウズベク人を嫌い、そして誰もがハザラ人を嫌う、ということです。事実、ハザラ人はタリバーンにも迫害され、多くの人が虐殺されたようです。
 オックスフォード大学のBryan Sykesという人類学の教授は、ジンギスカンの Y染色体を持つ男性は現在、世界中に1600万人、いるという研究を発表していますが、パキスタンの北部にもハザラ人が居て、彼らはジンギスカンのY染色体を持っているが周辺の民族は持っていない 、と言っています。教授はイギリスにジンギスカンの Y染色体を持つ人がいても驚かないといっています。何しろ、ジンギスカンは行く先々で男どもを殺し、女性たちとは子作りに励んだそうですから。
 ところが、ハザラ人というのはカザール帝国の時代にも居たという記事はネットでも多数発見できます。カザールはハザールとも呼ばれます。これはジンギン・カンがジンギス・ハンとも呼ばれるのと同じです。ハザラ人はジンギスカン以前からいたわけで、作者の考えでは、発音の類似性から言ってカザールの主要民族の一つだったのではないでしょうか? で、アフガニスタンのハザラ人はカザール帝国の主要民族だったかも知れないけど、ジンギスカンの一隊による大虐殺を受けた民族でもあるのでしょう。Y染色体がほとんど入れ替わっていることになりますけど、彼らはカザールの末裔でもあり、ジンギスカンの末裔というのも間違ってはいないのでしょう。

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