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信者のいない新興宗教002号 いろは歌の新解釈

 「いろはにほへと」のいろは歌には深い意味があると言われていて、誰もが大まかには意味を理解していると思いますが、前半の「色は匂へど散りぬるを我が世誰ぞ常ならむ」の部分は、よく分かり結局、全体がこの調子のことを言っているのだろうと想像はつきますが、後半の「有為の奥山今日越えて浅き夢みし酔ひもせずん」の方は頭をひねるばかりです。
 これは誰しも思うことで、ネットで探せば、いろいろな解説にお目にかかれます。その中に、私が英語版の日本文化の紹介として書いた「いろは歌・日本のアルファベット」も出てきますが、ここでは、それに少し尾ひれをつけてみます。標準的な解釈は、

花(栄光)は香るが、落ちて行く。
この世で誰が不死であり得ようか?
今日、奥山(浮沈の激しい人世)を越えて、
もはや浅い夢も見なくなり、酔うこともなくなった。

といったところです。
 不死は不変とした方が元歌に忠実でしょう。後半の部分は、もう少し砕くと、「今日は悟りをひらいて(奥山を超えるのは大変そうだと見当がつきます。それを乗り越えるのが悟りというわけです。)、浅はかな夢も見なくなり(様々な浮き世の楽しみを夢みるということでしょう)、酒に酔うこともなくなった。「浅き夢みし」は「浅き夢みじ」と解釈するわけです。こういうことでドイツ語訳もネットで見つかります。
 これで意味としては通りますが、私は、この歌を詠んだ奴は何と取りすましたいやな奴だろう、と反感を持ってしまいます。教育的な解釈ではありますが。そこで、「いろは歌・日本のアルファベット」では、我流の解釈を紹介しています。それは、

美しい人も花のように散っていく。
この世で誰が永遠で有り得ようか?
今日も現実の世界の困難を乗り越えて、
僅かの良い目も見たがそれに酔ってはいられない

というものです。
 前半の部分は標準的なものと同じです。後半の「うゐ」も「有為」として「現世の様々な為したり為さなかったり、為ったり為らなかったり、といったこと」と解釈をするのも同じです。「奥山今日越えて」は何だか困難なことなのだろうと想像します。それが標準的解釈では「悟りを開く」という感じになるわけです。
 後半のところをもう少しくだいてみましょう。例えば

 「今日は難攻不落の彼女を何とか口説き落として、ちょっといい目をしたが、それに満足してはいられない。ほかの男から守らなきゃならんし、ほかにもモノにしたい女はいっぱいいる。これからも頑張るぞ」

 これはあまり教育的ではありませんが、では

 「今日はやっとのことで大きな契約を取り付けて、今年のボーナスは少し色がつくことを夢みてよさそうだが、それでいい気になってはいられない。ほかの奴がもっと大きな契約を取ってきたらパアになるかも知れないし、油断は禁物」

とか、

 「今日は算数で100点満点をとって念願のモンブランを買ってもらって、ちょいと、いい目をしたが、それで安心というわけではない。次に 50点だったら、一週間はおやつ抜きかもしれない。」

ではどうでしょう? 十分に教育的だし、自然だと思いますけど。

英語には兄弟姉妹を独立で表現する言葉がない・後知恵
 前号で東南アジアに共通することは、弟、妹に対しては独立した言葉がなく、日本だけが違うことが分かりましたが、日本語のオトトとイモトは、ひょっとすると弟・妹はひっくるめてトで、それに男(夫) オトと女 イモを付け加えた韓国語と同じ構造だったのかも知れないな、と思いつきました。

信者のいない新興宗教
 人は刹那の幸せに基づいて行動する。
 この当たり前のことのようで、これを信条とするなどは畜生道にも悖る、と思われるかも知れません。ですが、信条にしようがしまいが、誰もが「刹那の幸せに基づいて」行動しているのだと私は思っています。しかし、結果としての行動は人それぞれに違っています。それは経験に基づいた知識によって、この行動がどういう結果を招くかを予想する正確さが違うからでしょう。溺れている人を救おうとして自らが死んだ人が、前世で、そのような経験があって「しまった、自分の能力と体調を考えて行動するんだった」と覚えていれば飛び込まなかったかもしれません。
 とにかく、私に言わせれば、すべて人は「刹那の幸せを追い求めて」の衝動的行動の連続ということになります。それで幸せになるかどうかは、たとえ同じ結果であろうと違ってくるでしょう。何が幸せなのか?ほんとのところはよく分かってなくて人によって違うのでしょう。

臓器移植
 臓器移植法改正案A案が衆議院を通過しましたね。何だかあまり議論のないまま、こちらとしても考えてみる間もないうちに決まっちゃいました。信者がいないとはいえ、教祖を自認している私としても何か意見なり感懐なりあってしかるべきでしょう。ですが、これがなかなか、まとまった考えにはなりません。移植を待つ子を抱える家族にとっては切実な問題であることはわかります。では気になることは? 今日は臓器移植一般といったことで話をすすめます。
 多分、恩恵にあずかれるのは、財力のある人たちでしょう。我が子となれば、なけなしの財産もなげうってということになるでしょうが、無い袖は振れない、移植が成功したとしてアフターケアも大変となると泣く泣く、天命と諦めることになることも想像できます。臓器移植も健康保険で、というほど日本国民は豊かではないでしょう。しかし、貧富の差が命にかかわるのが怪しからんからと反対するはまずいでしょう。
 実は腎臓移植と生体肝移植には、これまでも健康保険が適用されていました。昨年4月からは、心臓や肝臓、肺などの脳死移植に保険がきくようになりました。生体肺移植だけは、今のところ保険が適用されていないそうです。数千万とかの治療費の 3割とかだったらそれこそ、大変ですが、高額療養費制度というのがあって月当たりの自己負担額の上限があるため、実際の負担額は、月当たり10〜20万円前後に抑えられるんだそうです。差額は当然、他の被保険者に被さってきます。その後、免疫の問題があって一生、免疫抑制剤を服用せねばならず、それの費用が月の数十万かかり、免疫を抑制するから、今度は病気にかかりやすく、そのための治療が発生します。そんなこんなで、日常的に臓器移植が行われるようになれば、健康保険制度が破綻することになりそうな気がします。
 「では貴方は自分が裕福であれば賛成なのですね」と問われたときに、素直に「はい、そうです」とは答えにくいでしょう。「では仮に臓器移植も健康保険でできる時代だったら賛成なのですね、医療技術が進歩すれば誰でも移植手術ができるようになって、そうなるかもしれませんよ」と問われても同じでしょう。私の刹那主義的な利己主義から言えば「はい、そうです」と答えてよさそうなものですが、そうさせないのは、そういうことになった場合、次に何が起こるかを想像するとき、果たしてそれが私の利益に叶うものなのか気になるからです。
 私が基本的に悪人だから思いつくのかも知れませんが、Googleで「臓器摘出を目的とした殺人」を検索すると 19,300件がヒットします。中国やフィリピンなどでの話は話に聞いていますが、日本でも、それに近いものがあるようです。「murder for the purpose of organ transplant」で検索すると 186,000件がヒットします。私が思いつく程度のことは、悪心のある人はすぐに思いつき、実行に移すものらしいです。生き肝を抜かれることもあり得るということです。もちろん、善意のドナーからの移植を偽装されることになるでしょう。私が移植を受ける立場だったら犯罪の匂いをうすうす感じても、あえて不問にしそうです。ある日、ドナーの死因について統計をとってみたら変死が異常に多かったなんてことが無ければいいのですけど。ドナー登録者の情報が犯罪組織に流れていたりして。
 犯罪を心配していたら何もできないのが現実です。「定額給付金 犯罪」で検索したら 922,000件がヒットしますから。悪の知恵のある人の頭のよさには驚き入るばかりです。だから少々のことには目をつぶるのか? 「小義を捨てて大義に就く」、「大事の前の小事」という言葉があります。この言葉にはうろんなところがあります。真の解決をおろそかにして良いと言っているからです。
 こうして考えてゆくと、とてものことに結論には至りそうにありません。臓器とは普通は内蔵を意味するのでしょうが、血液の輸血、皮膚の移植、角膜移植までは、何ら疑問点はありませんでした。それすら天命に反することとして禁じる人たちもいるようですが。臓器移植がどこまで進歩するのか? 究極の臓器移植は脳の移植でしょう。これは到底実現しないだうろうと思うと、そうでもなさそうです。「脳の移植」で検索すると、これは 402,000 件がヒットし、これだと「脳死」による移植も含まれてしまうので、「+"脳の移植"」として「脳の移植」という言葉が必ず含まれるようにしても 2,840がヒットします。この中でついに脳の移植という記事を見ると、不気味な研究が1960年代からなされているようです。
 ここまで来ると、SF的な恐怖として次々に若い体に乗り換えて永遠に生きるなんてことが考えられます。多分、脳自体に寿命があってそうはいかないでしょうが。とにかく、ここまではやって良い、これから先は、恐怖の対象となって、刹那的利己主義の私としては不快になるという意味の限界があるのでは、と思っています。しかし、人類は可能になるものなら何でもやってしまう動物なのでやってしまうかも知れませんが、そうなると、人類の未来は暗いものになりそうな気がします。
 まあ、アクセクしたところで太陽の滅亡よりは前に人類は滅亡するでしょうから、なるべくは明るい未来になるように、幸せの中に滅亡の時を迎えられるようにしたほうが、気休めにはなるように思います。 我が家のこと
 まだ、畑の半分近くが遊んでいます。今、何とか育っているのはキュウリが 2本、これは今朝、1本食べました。満願寺トウガラシが 2本、鷹の爪・赤トウガラシが 3本、これはそんなに要らないのですが、4本単位で売っていたので仕方なくです。オクラが 2本といったところです。昨年、植えていたヤツガシラの小芋を取り残していたのがあったらしく、芽を出しています。最初は雑草かと思って、何度か抜きかけたのですが、ちょいと葉っぱが違うぞ、と、よく見たらヤツガシラでした。それにあちこちにタカナの九代目かも?とも思われる雑草があちこちから芽を出しています。これはほとんどは雑草としてむしり取られますが、運良く、それとはっきり分かるものがあると、少し大事にしてやります。まあ、季節的に今頃できても虫に食われて穴だらけになるでしょう。やはり本番は寒いなかでそだったやつです。
 葉っぱものは虫にやられるので、あまり作る気がしません。売ってるのは多分、農薬を使っているのでしょうが、一応は収穫の何日か前からは使わないようにしてるでしょうし、あまり気にしないことにしています。レタスの類はあまり虫が好まないようで、それほどやられませんが、これまであまり上手には作れなかったので敬遠です。そういうことで豆科か、ナス科が多くなりますが、この二つは連作がきかないので、植える場所が限られています。実は、去年、何をどこに植えていたか覚えているつもりがアヤフヤになっていて、確実なところだけに植えた結果です。コンピュータは得意なのだから、植え付け場所の管理をやって作付け計画をしなけりゃ、と考えています。 昨年はゴーヤを縁先に植えて夏の時期、日陰と食べるほうとで重宝したので、今年も挑戦です。これも連作はあまりよくないのかも知れませんが、期待しています。

09/06/01発行 180部(不着が20通あり、実質160部)

 

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