忘れられない雀

 40年近く前の話です。家内が雀の子が落ちているのを見つけて拾ってきました。団地のどこかの階に巣を作っていたのが、何かの拍子に落ちたようなのですが、まだ飛べないものの、ある程度は羽も出てきていて、どこと言って体を傷めている様子はないので、何とか育てられないかと考えたのです。
 どうやって食べさせるか、これが難問です。卵の黄身だったら完全栄養でいいだろうと、食べさせようとするのですが、どうにも口をあきません。いろいろやって見ましたがうまく行きません。しゃにむに口を開けさせて細いもので差し込むようにすれば、と竹串の先に練った黄身をつけて口のところに当てると、これはびっくり口を開けました。嘴に何か細くて固いものがあたると口を開けるのです。そうしているうちに竹串を近づけると羽をうち振るわせておねだりをするようになりました。
 そうしてある程度は動けるようになり、卵ばかりでもないだろう、多分、親鳥は虫などを食べさせるだろうと、いや、これは、そのまた昔、60年くらい前の記憶で家に迷い込んできた雀を鳥かごに入れて縁側に置いておくと、いつの間にか親鳥がやってきて、いや親鳥だけではないようですが、次から次ぎに小さな虫を入れていくのです。危険を冒して餌をやりに来るのです。最初は罠のつもりで次々と捕まえてはかごに入れていましたが、雀たちの心意気に感心して最後は放してやりました。
 そこで春先のことで小さなバッタみたいなのを捕まえてきて、雀の前に置いてやると、虫が動くのにびっくりして、子雀は腰を抜かしてへたり込んでしまいました。ほんとに腰を抜かします。それからどうやって食べさせたかは記憶にありませんが、大好物になり、こちらは虫取りに大忙しです。勤め先には手入れの行き届かない空き地があってバッタの類の宝庫なのでそんなに大変でもありませんが。捕まえたのをイチゴのパックにラップをかけた中に入れて持ち帰ります。
 すると、私の足音を覚えていて、それが聞こえてくると玄関にかけつけて出迎えています。それが、よその人が来ようものならアッというまに部屋の隅に逃げて身を潜めます。当時は四人家族でしたが家族全員の足音を聞き分けて私のときは玄関にかけつけるわけです。
 こうして元気になると雀というのはなかなかに遊び好きです。ゆるく握り拳を作ってやるとシャニムニ頭を突っ込んで潜り込み、今度は指の間を頭でこじ開けようとします。少しずつゆるめてやると頭を出してきて、「どんなもんだい」という顔をして、また潜り込みを開始です。この雀、灯りがついている間は寝ようとしません。明るいからいけないんだと子供の帽子をかぶせると、帽子を押してチョコチョコ動き回ります。
 そうこうしているうちに飛べるようになりました。そこで鳥かごを買ってきて寝るときは鳥かごの中にいれて風呂敷をかぶせるようにしました。それでは水浴びも覚えさせなきゃ、と新聞紙の真ん中に水を入れた灰皿を置いて、足をちょっつけてやると、これは簡単に使い方を覚えて、水浴びをします。水を跳ね散らかしますから新聞紙はそのためです。念入りに水浴びするものだから、濡れそぼってミットモない姿になります。とても飛べたものではありません。
 飛ぶ力もかなりのものになって、何かの加減で小さな蛾が発生して、それが天井に止まっているのに近づけて見せてやるとこれをヒョイとついばみ、それから天井に虫が止まっていると飛び立って捕まえるようになりました。
 かくして元気に育ち、そこらを飛んでいる雀とくらべても遜色ない感じになりました。そこで名残惜しいけど、自由な天地に放してやるか、とカゴから出して外に飛び立たせました。するとちょっとの間、飛んだかと思うと戻ってきてしまいました。そうか、もう野生に戻るのは無理かな?と家族として暮らすようになりました。
 家内が「ご飯だよーっ」と子供たちを呼ぶと、真っ先に文字どおり飛んでくるのがピッピです。子供たちが名付けたのです。座る場所というか居る場所は決まっています。長女の席の横です。まだ二才くらいで食べ物をこぼすのです。それを待ち受けているわけです。なかなか落ちてこないと長女の肩の上に飛び上がり、ほっぺたとか口の周りにくっついたご飯粒とかをついばみます。
 こんな生活が一月も続いたでしょうか? ある日、買い物から帰ると子供たちが申し訳なさそうな顔をしています。「ピッピがいなくなった」というわけです。話を聞くとカゴから出して外に放してやったら一度は戻ってきたけど、二度目は戻ってこなくなった、というのです。少し外を飛んでみて自信がついたのでしょう。広い天地があることに気が付いたということでもあるでしょう。まあまあ、良かったということになりました。
 しかし、あの念入りな水浴びをしていたら、飛び立てないままに外敵にやられてしまわなかったかと心配でした。まあ、他人が来ると身を隠すことも知っていましたから、ちゃんとやって行けただろうと思います。もう一つ心配だったのはほかの雀とスズメ付き合いがちゃんと出来たかどうかです。

 何で、これを思い出したかというと、うちの洗面所の横が中庭というわけではないけど、ちょっと軒先が長くなっていて、この梅雨時でも地面が乾いているところがあって、雀がやってきては楽しそうに砂浴びをしていたのでピッピのことを思いだしたというわけです。