ここに紹介するのは、健常者から、ある日、身体障害者になられた方のメールです。45歳働き盛りの2児の父親の方で、バリアフリーへの訴えを、力もない私に訴えられても、なすすべもありませんが、何人かの力のある関係者の目にとまれば、と、原文のまま、掲載します。ふだんは、バリアフリー、バリアフリーといっても、障害者の方にだって、健常者への思いやりがあっていいのでは、と考えたりしていますが、みんなが明日は我が身であるということも事実です。そのときになって、どう考えるか一つの参考になるでしょう。

バリアフリーは思いやり

理学療法士 西沢 滋和


 バリアフリーを整えた家屋や都市等を見受ける度に誰のための配慮なのか考えてみる必要があるのではないかと私は思います。
 何故ならバリアフリー整備のために不必要なお金を費やす余裕等今日の情勢には無いのではないかと考えるからです。
 では一体バリアフリーとは誰のために整備する必要があるのでしょうか。私は健常者や障害者等、あらゆる人の利益になるのがバリアフリー整備だと思うのです。健常者であっても、いつ障害者になるか定かではないのがお互いの人生ではないかと考えるからです。(私は1999年8月1日に脳卒中で倒れ障害者になってしまいました)
 しかしながら日本においては残念ながらバリアフリーが行き届いているとはいえないと感じています。(以前、カナダに勉強に行きそう思いました)
 この理由を考察した時、私は3つの原因があるような気がしているので以下に列挙したいと思います。
1つ目は生産能力者を極端に最重視するために、健常者(生産能力の高い人)の障害者等に対する思いやりがついつい(無意識のうちに)欠けてしまった為だと思います。
2つ目は障害者等のバリアフリーの必要性を訴える声を、国が良かれと思った事でも結果的に封殺してしまう施策を展開してしまったのではないかと思うのです。
3つ目は社会全体の思いやりの欠如が影響しているのではないかと思うのです。常識マナー改善・向上サインの増加によりそれを促したり、他人を気にしない言動を平気で披露する人の増加を見受ける度にこう思うのです。もしかするとこのような人は脳に障害があるのかもしれないと思ってしまいます。こんな状況下でバリアフリーまで配慮が及ぶでしょうか。
 2つ目はとても深刻な問題であると私は思います。国が真に思いやりを持って的を得たような施策を障害者等に展開していたとすれば、障害者等の社会進出を応援するベクトルが目に見えなくてはならないはずなのに、現実はかけ離れているのではないのでしょうか。
 このように2つ目もとらえますと3つとも共通しているのが思いやりという潤滑油の欠如が今日のバリアフリー後進状態を生んでしまったのではないかと考えます。
 人の形成する社会に思いやりがなくなってしまったならば一体どうなるのでしょう。今日の劣悪極まりない社会情勢を垣間見ますと一目瞭然ではないのでしょうか。

取り返しのつかない状況が待ち構えているような!?
 バリアフリーの進捗状況を例にとって、現代社会全体の思いやりの欠如傾向に触れてみましたが、人の社会が次第に乱れていく様をこのまま放置しておいて果たして良いのでしょうか。このままでいたら取り返しのつかない状況が人の社会に到来してしまうような気がしてなりません。

目覚めよう!より良い社会を取り戻すために
 思いやりとは人と人を結びつける潤滑油の役割を持っていると私は思います。機械器具でも同じように、この潤滑油が減少したり無くなってしまうとどうなるでしょうか。その結果はおそらく今の人の社会に似てギスギスした様子が伺えてしまうのではないのでしょうか。
 このような状況をそのまま放置しておいて良いのでしょうか。口では何とかしないといけないと策を労しているようですが、仕打ちや言動の拘束ばかりが増加して一向に効果が上がっていないのが実情ではないのでしょうか。
 では一体どうしたら良いのでしょうか。
 私にはその秘めた得策があるのですが、ここでは出し惜しみさせて頂きたいと思います。
 何れにしましてもこのままの状況を放置していたら今後は保障の限りではないのでしょうか。しっかりと目を見開いてお互いの将来を真剣に見据えていきたいものです。