ここに紹介するのは、健常者から、ある日、身体障害者になられた方のメールです。45歳働き盛りの2児の父親の方で、バリアフリーへの訴えを、力もない私に訴えられても、なすすべもありませんが、何人かの力のある関係者の目にとまれば、と、原文のまま、掲載します。ふだんは、バリアフリー、バリアフリーといっても、障害者の方にだって、健常者への思いやりがあっていいのでは、と考えたりしていますが、みんなが明日は我が身であるということも事実です。そのときになって、どう考えるか一つの参考になるでしょう。

文明の進歩は人類の破滅を意味しているのではないか?
(様々なバリアこそ、人類が産み落としたのでは?!)

理学療法士 西沢 滋和


 今日の人類文明繁栄を翻りますと、自らの存在維持の脅威となる自然破壊を考慮して、様々な分野において修正を施しているように見受けられ、繁栄とは言い難い現状が存在しているような気がしています。
 大気汚染問題・海洋汚染問題・地球温暖化現象など等、人類の生存危機をもたらす様々な現象を考えてみますと、人類自らがその種を撒いて来たような思いがしてなりません。人類のみならず様々な生物が生存し続けられるように様々な取組みが成されていますが、その全てがあたかも繁栄しているかのように見える人類の欲望が織り成した結果の尻拭いをしているような気がします。
 人類は物に溺れお金に執着したために、大自然の一部として自らの存在が生かされている事に気付かず、長年に渡り傲慢な行動をとり続けてきたのではないのでしょうか。大自然を破壊する事で人類の存在を誇示しようとしたのではないのでしょうか。
 今失ってきたものを取り戻そうとする行動の数々を垣間見ると、取り戻そうとしている古の環境こそが人類の生命維持に役立つバリアの無い環境ではないのかと思えてきます。
 バリアフリーとかユニバーサルデザインとか連呼されていますが、古の環境下では存在しなかった言葉だったのではないのでしょうか。
 バリアには大別して物に対するバリアと心に対するバリアが存在しているように思われます。
 前述致しましたが人類の繁栄はあたかも自らの存在継続を阻害するのではないかと考えられるバリアの数々を創造して来たのが繁栄に見えたのではないのでしょうか。
したがって人類の飽くなき欲望という心の作用こそが、大きな問題点となってくるような気がします。
バリアは人類にストレスと化して襲いかかってきているように思われます。そのストレスが度を越して、人類も野生動物の一部と同じように絶滅危惧種に含まれてしまったのではないのでしょうか。天に向かって唾を吐き続けたしっぺ返しが人類に向けられているように見受けられます。
 人類文明の繁栄は省力化を各分野で成し遂げてまいりましたが、人の手を使って謙虚に物事を進めていく事がおそらくとても大切な事なのではないのでしょうか。
 また人と人との織り成す直接的な感情、思いやりのキャッチボール現象を少なくさせているのではないのでしょうか。電話やメール、ファックス等を通じた会話には血が通っているのでしょうか。やはり直接お会いして会話する事に勝る感情、思いやりのキャッチボールは存在しないのではないのでしょうか。
 省力化とは物やお金を多く所有したい人類の飽くなき欲望の結果が招いた私達の本能的な行為ではないのかと思っています。
 もうこれ以上消費社会を継続して良いのでしょうか?!これ以上大自然に逆らい大自然をクローバル化の旗印に破壊して良いのでしょうか。これ以上人類の欲の皮を突っ張り続けさせて良いのでしょうか。これ以上自らだけが正しいと傲慢な言動を示し続けてよいのでしょうか。
 人は自分以外の全ての存在をお蔭様で生かされているという自覚が芽生えなければ何時までたっても人類そのものが滅亡するかもしれない道程を走り続けてしまうような気がしていますし、真の平和な地球は訪れて来ないような思いがしています。
 バリアフリーが全世界に普及していく事は現状にこんな警鐘を投げ掛けるきっかけになるのではないかと考えています。
 何故なら健常者がそうでない少数である存在となっている人々の事を考慮した環境整備がバリアフリーではないのかと思うからです。
 人類は文明の進歩が幸せになるのではないかと考え突っ走ってきた道程が伺えるのではないのでしょうか。果たしてそれが解答なのでしょうか。今こそ人類は真剣に翻ってみる時を迎えているような気がしています。